入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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2011-07-01から1ヶ月間の記事一覧

蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー139 佐々目郷は正応6年(1293年)から建武2年(1335年)にかけて、4回にわたって鶴岡八幡宮に寄進されています、社領の寄進者は、佐々目郷領家方の場合は建武2年に足利尊氏から座不冷(ざさまさず)料所として寄進されたことは明ら…

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◇ 蕨の歴史ー138 佐々目郷は、現在のさいたま市南西部から蕨市西部の一部を含め、戸田市南部にかけて広がる中世の郷です、中期入間川左岸の沖積平野部に位置し、かつての入間川の乱流による沼沢地と思われる標高3m前後の低地が展開するなかを標高4~5…

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◇ 蕨の歴史ー137 足立郡は北条氏以来幕府の主要な領地であり、それを引き継いだ尊氏も同様な認識をしていたようです、なかでも大窪郷は鎌倉街道の上道・中道をつなぐ羽根倉道に面し、中期入間川の渡河点(羽根倉の渡し)をがあり、水陸交通の要衝であった…

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◇ 蕨の歴史ー136 応永2年(1395年)7月の「足利義満御判御教書」およびそれによる翌3年7月の「斯波義将施行状」によると、大窪郷領家職は関東管領上杉憲方の遺領となっています、従って大窪郷は安保氏の手を離れ、山内上杉氏の所有となっていまし…

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◇ 蕨の歴史ー135 南北朝・室町期の蕨周辺の郷として大窪郷と佐々目郷があります、大窪郷は荒川(中期入間川)流域左岸の沖積低地に拓けていた郷で、現在のさいたま市桜区大久保地区のほか白鍬、塚本に比定されます 観応元年(1350年)8月9日付の「高…

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◇ 蕨の歴史ー134 江戸時代の文化13年(1816年)、蕨宿では渋川氏討死250回忌に当たり、家臣の子孫、高橋・今井・町田・山田・河島・貫井・永島・庄野の諸氏らの手で渋川氏夫妻の石碑が建立され、これらの各氏が渋川家臣を称していたことが確認さ…

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◇ 蕨の歴史ー133 次に、土橋の庄野家は、栄左衛門義春が正清(義基)の旗本として従い討死しました〔上尾市平塚蜜厳院の「薬師如来縁起」では、蕨城主渋川左衛門尉俊公が里見義弘・小笠原信秀らと結び北条氏康と鴻の台で合戦(第1次国府台合戦)して自害…

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◇ 蕨の歴史ー132 先の史料によると三舟山合戦(伝承史料ではほとんどが鴻の台合戦とする)の時の渋川氏の当主は正清とありますが、これは他の史料や系図には見られません、「板倉家系図」などから、この期の渋川氏当主は義基に比定され、義基の父は義堯、…

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◇ 蕨の歴史ー131 この時に、主君渋川氏とともに討死にした家臣名などから、家臣団の一端を知ることができます、但し、それらを伝える史料は後年の成立になる記録・系図などが主で信憑性に乏しいのですが、その大要は知ることができます また、城主渋川氏…

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◇ 蕨の歴史ー130 蕨城の北西には三学院や本法院・宝蔵寺、東南には渋川氏の菩提寺である宝樹院があり、近くには家臣も居住していて、蕨城の砦の役割を果たしていたようです、また、蕨城の東南には「要害」、「防止」等という城砦ゆかりの字名を残していま…

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◇ 蕨の歴史ー129 数少ないこれらの史料を参考にしつつ弘化3年(1846年)の成立と伝えられる「蕨御殿の図」を検討してみると、御主殿社を祀る主郭とおぼしき方形の曲輪(くるわ)を中心に南へ二つの曲輪、北にも曲輪状遺構が配されており、微高地の上…

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◇ 蕨の歴史ー128 蕨御殿町説ですが、その大要は『新編武蔵風土記稿』に次ぎのように記されています、”城跡は蕨宿の東にあり、字名を要害、又は蕨の御所、あるいは城跡などと称した、二町四方程の平地に堀切や土居跡などを残し、中央には御主殿と呼ばれる…

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◇ 蕨の歴史ー127 義鏡が関東へ下向する直前の康正2年(1456年)正月には、古河公方足利成氏の重臣簗田持助が下総の関宿から討って出て、足立郡の過半を横領し千葉兄弟を追って下総市川城(千葉県市川市)を攻略していました、さらに2月には成氏が大田…

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◇ 蕨の歴史ー126 次に、渋川氏と蕨の関係、および関東に下向した義鏡らが、関東の戦国大名にどのように見られていたかを見てみる、史料「里見家永正元亀年中書札留抜書」には房総の大名里見・正木両氏と古河公方や両上杉氏以下東国諸将との関係を示す書札…

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◇ 蕨の歴史ー125 次いで、渋川氏と武蔵の関係で注目すべきは、渋川幸子による豊島赤塚郷の京都鹿王院への寄進でしょう、元来赤塚郷は足利直義が建武政権から勲功の賞として与えられた所領の一つで文和元年(正平7、1352年)直義の死後は、正室の渋川…

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◇ 蕨の歴史ー124 この下向に当たり、将軍義詮が同年8月25日付けで大宰府天満宮司大鳥居信高に宛てた文書や、義行自身が渋谷重門に発した文書によれば、当時義行が武蔵守であったことがわかります この後、義行は、九州渡海を目指して中国地方へ進み、…

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◇ 蕨の歴史ー123 こうした史実や室町幕府の重鎮としての渋川氏の動向から、武蔵守渋川義行の武蔵下向と蕨築城の伝承が生まれたのでしょうが、これについてはより一層の吟味探求の必要があると思われます、後に現地調査報告を含め、項を改めて検討すること…

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◇ 蕨の歴史ー122 ところが、政知ー義鏡体制は所詮幕府の力を背景とする政権であったため、長期にわたり関東諸将に君臨してきた古河公方には対抗し得なかったのです、また、政知らの勢力も鎌倉に入れず、伊豆の堀越に止まる弱小政権でしたから、幕府の権威…

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◇ 蕨の歴史ー121 関東公方の政務執行体制は関東公方ー関東管領ー奉行人ー各国守護のラインでした、ところが堀越公方の場合は、公方ー渋川義鏡ー板倉頼資あるいは奉行人か各国守護で、関東管領は関与していませんでした、さらに、将軍義政の御内書も政知と…

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◇ 蕨の歴史ー120 義鏡は公方政知を補佐して成氏討伐に当たるはずでしたが、上杉氏との不和・反目もあってなんら実績を挙げることができませんでした、上杉軍も同3年10月、武蔵の太田庄・上野海老瀬口(えびせぐち・群馬県板倉町)・同羽継原(はねつぎ…

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◇ 蕨の歴史ー119 長禄元年12月15日、政知と名乗った香厳院主は、同月19日に左馬頭に任官しました、次いで同月24日、渋川義鏡らと共に「新鎌倉殿」として京都を発ち、近江の三井寺まで進みます、改名から出京までいかにもあわただしいものがありま…

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◇ 蕨の歴史ー118 長禄元年(1457年)7月、古河公方足利成氏と両上杉氏の抗争に悩んだ幕府は、将軍義政の弟で当時仏門にあった香厳院主(政知)を還俗させ、関東に下すこととしました、その補佐役に挙げられたのが渋川義鏡です そのころ義鏡は右兵衛…

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◇ 蕨の歴史ー117 享徳3年(1454年)成氏は憲忠を鎌倉西御門邸に招いて暗殺しました(享徳の乱)、山内・扇谷両上杉氏は、鎌倉を逃れ武蔵国で体制を立て直したあと、立川(東京都立川市)・府中で成氏軍と合戦に及びましたが敗れました、上杉持朝らは…

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◇ 蕨の歴史ー116 結城合戦後の東国においては、関東管領上杉氏が実権を掌握していきました、これに対して関東公方派は持氏の子永寿王を擁立し、関東公方の再興を図り、宝徳元年(1449年)幕府にこれを認めさせました 永寿王は鎌倉に入り名を成氏(し…

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◇ 蕨の歴史ー115 しかし、上杉氏に対する不満や反発は強くありました、下総の結城城(茨城県結城市)に拠った結城氏朝は、日光山(栃木県日光市)に逃れていた持氏の遺児安王丸・春王丸を迎え入れ、さらには信濃に逃れていた末子永寿王も合流し、関東公方…

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◇ 蕨の歴史ー114 将軍義教は、富士山遊覧を口実に持氏を威圧するなどその動向に対して警戒を強めていましたが、賢王丸の元服にあたり持氏と対立し上野国に逃れていた上杉憲実の支援要請を機会に、持氏の討伐を決定しました、そして、駿河国守護の今川範忠…

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◇ 蕨の歴史ー113 禅秀も憲基も武蔵国と関係が深く、武蔵7党のうちの丹党・児玉党の武士(禅秀側)や江戸・豊島氏(憲基側)らがこの乱に加わっていました、また、武州南一揆(武蔵平一揆が再編されたもの、東京都多摩地区を拠点として武蔵南部で活動)の…

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◇ 蕨の歴史ー112 満兼病没後は幸王丸が応永17年(1410年)に将軍義持の一字を拝領し持氏と名乗り、第4代関東公方に就任しました、補佐役の関東管領は上杉憲定であしたが、翌年病気を理由に退くと、上杉朝宗の子氏憲(法名禅秀)が就任しました 応…

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◇ 蕨の歴史ー111 庚暦元年(1379年)、幕府では管領細川頼之と斯波義将との対立が表面化し、義将が新たに管領となりました、(庚暦の政変)、こうした幕府の動揺をみて関東公方足利氏満は、自らが将軍職に就こうとうかがいましたが、関東管領上杉憲春…

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◇ 蕨の歴史ー110 氏満治政期の康暦2年(1380年)に起こった事件として小山(おやま)氏の反乱があります、この乱は小山義政と宇都宮基綱の所領争いに始まったのですが、氏満と義政の争いに発展しました、氏満は小山氏の祇園城(栃木県小山市)を攻め…