入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

学び合い 〔仲間募集〕 ℡ 048-432-1433

蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー127

義鏡が関東へ下向する直前の康正2年(1456年)正月には、古河公方足利成氏重臣簗田持助が下総の関宿から討って出て、足立郡の過半を横領し千葉兄弟を追って下総市川城(千葉県市川市)を攻略していました、さらに2月には成氏が大田庄の鷲宮神社久喜市鷲宮)に兇徒退治の願文を捧げ、征圧した足立・騎西両郡の段銭を修造料として寄進しています

こうした危機的状況下において関東へ下向してきた義鏡は、扇谷上杉氏の築いた河越・岩付・江戸三城の軍事防衛ラインに加え、渋川氏ゆかりの蕨郷に蕨城を築いたと思われます、その時期は明確にはできませんが、義鏡の関東下向後余り時を経ない時期に、板倉氏ら家臣により築造されたと考えられます

この蕨城の位置については、蕨御殿町説と戸田市元蕨説の2説があります、このうち戸田市元蕨説は『新編武蔵国風土記稿』の記述から「蕨」の地名は戸田市の『元蕨』に発祥することを前提とし、上戸田村の多福院や海禅寺が桃井播磨守直常の子中務少輔直和を開基とし、同地の屋敷跡を「戸田の御所」と呼ぶとある伝承に疑問をもって、これらの伝承を様々な解釈により桃井直和から渋川義行に関係づけ、元蕨の戸田御所が渋川氏の蕨城であると主張しています

しかしながら、この論理展開には不自然さがあり、義行自身が前述のように武蔵に下向した様子がないので、なお、御殿町説とともに研究の余地があると思われます