入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー126

次に、渋川氏と蕨の関係、および関東に下向した義鏡らが、関東の戦国大名にどのように見られていたかを見てみる、史料「里見家永正元亀年中書札留抜書」には房総の大名里見・正木両氏と古河公方や両上杉氏以下東国諸将との関係を示す書札礼を書きとめています、これによれば正木氏が渋川氏に書状を出す場合には渋川氏本人宛ではなく、家臣の板倉宛てに出すこととし、関東管領から渋川氏への場合は、姓や官途でなく根拠(居住)地名を冠して「蕨御宿所」とするとあります

渋川氏が足利一門として尊重されていたことが分かるとともに、蕨が渋川氏の代名詞とされ、渋川氏と蕨の密接な関係が示されています、なほ、「足利政氏書札礼」においても、渋川家は足利将軍家の御一門とされ、政氏からの書状は書き止めは「恐恐謹言」、日付の下に「花押(かおう・サイン)」を書き、宛名は姓のみの「渋河殿」と書くとされ、古河公方の書札礼においても、渋川氏の位置付けの高かったことが指摘されています

渋川義鏡が関東に下向後、蕨に根拠を置いたのは、前述したように義鏡の祖直頼・義行と蕨郷を領有してきたこと、文書からは確認できないが嫡系である義鏡も恐らく蕨郷を伝領していた可能性の高いこと、足立郡が尊氏の領有以来足利家の重要な所領であったこと、隣接の豊島郡赤塚郷が一族の渋川幸子の所領であったことなどに求められます