入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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2010-03-01から1ヶ月間の記事一覧

蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より 総習[6] 5世紀までに南武蔵・上毛野の両地域では、全長100mを超す前方後円墳を築造するようになりますが、上毛野では白石稲荷山古墳・御富士山古墳・そして最大級の太田天神山…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より 総習[5] 朝鮮半島への進出は、任那(みまな)が滅ぶことにより結局失敗に終わるのですが、その過程で知ることのできた中国大陸・朝鮮半島諸国の進んだ政治組織は、大和政権を中心と…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より 総習[4] 5世紀になると、畿内では応神天皇陵古墳(全長420m)や、仁徳天皇陵古墳(全長486m)に代表される巨大前方後円墳が造られるようになります、その副葬品には、祭祀…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より 総習[3] 前橋天神山古墳では紡錘車形碧玉製品が出土しています、これは、奈良県・メスリ山古墳例のように玉杖のような杖形儀器の部品であったとの見方もありますが、単独でも宝器と…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より 総習[2] 初期の武蔵の古墳をみると、橘花で白山古墳(全長87m)、田園調布で宝萊山古墳(全長100m)があります、これらは共に前方後円墳で、鶴見川下流域と多摩川下流域に相…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より 総習[1] 3世紀末から4世紀初め以来、古墳は各地で造られるようになりますが、これらの古墳の核となるのは、大和政権の影響を受けた「三角縁神獣鏡」を副葬し、「長大な割竹形木棺…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より [20] (1)「武蔵地方をかりに北武蔵に限って考えれば、比企と児玉の争いが想定しうる、その場合、勝者は比企であり、敗者は児玉であろう」と、野本将軍塚古墳以降も前方後円墳が…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より [19] 各地域を比較検討して (イ)「4世紀の古墳が卓越するのは南武蔵の多摩川流域で」全長100mの前方後円墳が存在することを示し、これと「ほぼ同じ頃に」北武蔵に山の根古…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より [18] 金井塚氏による批判を取り入れ、北武蔵の古墳へも配慮を加えながら、武蔵国造の乱に関係する各地の古墳の消長から考察を試みたのが、石野博信氏の「連載講座古墳時代史Ⅱ、反…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より [17] 原島礼二氏が「『日本書紀』のミヤケの設置記事」『古代文化』26-1で「屯倉の設置年次が、欽明・推古朝の屯倉設置を中心にして意図的な整合性(陰陽五行説)をともなって…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より [16] 「横浜市史」から「古代の日本」へと「武蔵国造の反乱」を史実として肯定的にとらえようとしてきた甘粕健氏の説に対して、疑問を提示したのが、金井塚良一氏の『吉見百穴横穴…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より [15] 4個所の屯倉については「南武蔵に置かれた3個所の屯倉と、これらと飛び離れて北武蔵に置かれたと考えられる横渟の屯倉との性格の違いに注目する必要がある」としています …

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より [14] また、「上毛野君が、当時武蔵国造に対して一種の宗主権を持っていた」のではないかとし、「国造の継承に介入する正当な権利」を持ち、武蔵国造が強大になることを阻止するた…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より [13] 小杵の本拠地については、「大和政権に反抗して滅ぼされた豪族の領地を収公して屯倉にした」と考えるのが自然であるから、「争乱の後に広大な屯倉が設置された多摩川・鶴見川…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より [12] 野毛大塚古墳群では平成3年度(1991)の調査で、第1主体部(割竹形木棺・粘土槨)より中国製と考えられる内行花文鏡、および三角板革綴衝角付冑・長方板革綴短甲・頸甲…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より [11] しかし、南武蔵が完全に上毛野の影響力の下にあったわけではなかった「6世紀になって野毛大塚古墳(等々力大塚古墳)の上流の狛江古墳群中に、畿内色の強烈な亀塚古墳が出現…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より [10] これら「関東地方の古墳文化の注目すべき地方色」は「本来、大和政権によって定められた国家的な祭祀」である「古墳祭祀を東国独自の内容とし、古墳祭祀を通じてくわえられて…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より [9] 甘粕健氏は、「武蔵国造の叛乱」『古代の日本』第7巻・関東、角川書店、昭和45年(1970)で『横浜市史』の考え方を、さらに、推し進めている まず、記事の信憑性につい…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より [8] 屯倉の設置された南武蔵では、5世紀の繁栄にもかかわらず、6世紀前半の神奈川県横浜市・瀬戸ヶ谷古墳築造後は大前方後円墳が見られなくなると述べ、「このことは南武蔵に1世…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より [7] 武蔵内部の変化については、6世紀になって埼玉県行田市・埼玉二子山古墳や同東松山市・将軍塚古墳など「それまでみるべき古墳のなかった北武蔵に有力な古墳群が形成されはじめ…

俳句つくり 余情

春らしい暖かい日が来たかと思うと、冷たい雨や雪の日が続き、春はまだのようです ”ガラス戸の曇りの向こう雪崔い” ”鳩などの来たるらしかな軒の雪” ”また降りぬ化粧ひまなき雪女郎” しかし、確実に気候は進み、梅がつぼみを膨らませていました ”老兵をなほ…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より [6] まず、武蔵国造の乱は「盤井の叛乱に引きつづいて起こった全国的な争乱の圏外にありえなかったことを示しているが、ここでは屯倉設置のきっかけがヤマト政権と、武蔵の豪族との…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より [5] 今迄、多くの人が「武蔵国造の乱」について触れてきていますが、殆んどは「日本書紀」に記事があることを紹介するにとどまり、記事の内容について具体的に検討している例は、大…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より [4]

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より [3] ◇登場人物 ①武蔵国造笠原直使主(カサハラノアタイオミ) この記事の主人公です、物語の始まりからすでに名前の頭に国造の名が付されています、これは記事が書かれた後世の時点…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より [2] 「日本書紀」巻一八、安閑天皇(534)の条に記されている「武蔵国造の乱」の記事の意訳文は次のようになります 「武蔵国造笠原直使主(人名)と同族小杵(人名)が国造の地…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より [1] 「『日本書紀』巻一八、安閑天皇元年(534)の条には、『武蔵国造笠原直使主と同族小杵が国造の地位を相争い・・・・』と始まる、一般に『武蔵国造の乱』と呼ばれる記事が掲…