入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より [18]

金井塚氏による批判を取り入れ、北武蔵の古墳へも配慮を加えながら、武蔵国造の乱に関係する各地の古墳の消長から考察を試みたのが、石野博信氏の「連載講座古墳時代史Ⅱ、反乱伝承と古墳(2)」『季刊考古学』第12号、雄山閣、昭和60年(1985)です

各地域ごとに古墳群をとらえていますが

(イ)埼玉古墳群:5世紀後半から始まり6世紀末から7世紀前半まで続くとし、周溝の形態から「稲荷山古墳と奥の山古墳の2つの系列が存在し、前者が優勢を保ちつつ小見真観寺古墳に至る」とする

(ロ)比企丘陵:4世紀後半以降、6世紀後半まで前方後円墳が築造され続け、「埼玉古墳に先行して在地勢力が存在しており、6世紀初頭には稲荷山古墳に匹敵する規模の野本将軍塚古墳が出現する」、しかし、「雷電山古墳が帆立貝式古墳であることからして、埼玉古墳群を生む母胎となったとは考え難い」としています

(ハ)児玉地方:「4世紀後半から5世紀まで、大型円墳を主流とする古墳が系譜的に築造され」「在地勢力の存在を示す」と考えています

(ニ)太田古墳群:「埼玉古墳群の北西20kmに利根川をはさんで」と断りを入れた後、4世紀から6世紀末まで継続して前方後円墳が造られるとし「埼玉古墳群に匹敵する規模を保持しつづけている」と指摘しています

(ホ)上毛野中部:4世紀後半に八幡山古墳(前方後方墳)、ついで「畿内色が強い」前橋天神山古墳(前方後円墳)が登場するこの地域にも「一つの地域集団が存在した」と考え、6世紀後半以降は、北方と利根川左岸の2群に分岐するとしています

(ヘ)井野川流域:保渡田古墳(井出二子山古墳=愛宕塚古墳・保渡田八幡塚古墳・保渡田薬師塚古墳)や綿貫観音山古墳を含め、5世紀後半から6世紀まで「地域は異なるものの一つの系譜をたどりうる」と想定しています