入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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2010-04-01から1ヶ月間の記事一覧

蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より ◇ 博物館講座(平成6年2月27日)から 「毛野から上毛野へ」(群馬大学教授 梅澤重昭氏)〈8〉 「その根拠、理由を考えて見ますと、三角縁神獣鏡というのをご存じだと思います、三…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より ◇ 博物館講座(平成6年2月27日)から 「毛野から上毛野へ」(群馬大学教授 梅澤重昭氏)〈7〉 「このように東国の開発という大和政権の東国経営が進んでいく中で、毛野は一番後発…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より ◇ 博物館講座(平成6年2月27日)から 「毛野から上毛野へ」(群馬大学教授 梅澤重昭氏)〈6〉 「次に毛野の古墳時代はいつから始まったのかということについて考えてみます、最近…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(太田区立郷土博物館編)より ◇ 博物館講座(平成6年2月27日)から 「毛野から上毛野へ」(群馬大学教授 梅津昭重氏)〈5〉 「この地域に出てくる土器は石田川式土器というものです、太田市の西方に石田川が流…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(太田区立郷土博物館編)より ◇ 博物館講座(平成6年2月27日)から 「毛野から上毛野へ」(群馬大学教授 梅澤重昭氏)〈4〉 「それでは、毛野の地域というのはどういう地域かというと、次のように考えます、利…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より ◇ 博物館講座(平成6年2月27日)から 「毛野から上毛野へ」(群馬大学教授 梅澤重昭氏)〈3〉 「もう一度、図Aの東の方へいきますと太田に、東日本で一番大きい太田天神山古墳が…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より ◇ 博物館講座(平成6年2月27日)から 「毛野から上毛野へ」(群馬大学教授 梅澤重昭氏)〈2〉 「ところが、その無住の地帯に北関東では一番大きい古墳が現れるのです、それも古墳…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より ◇ 博物館講座(平成6年2月27日)から 「毛野から上毛野へ」(群馬大学教授 梅澤重昭氏)〈1〉 梅澤氏は、昭和9年〈1934年)群馬県生まれ、明治大学大学院卒業後、群馬県教育…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より 総習[24] 7世紀後半から8世紀初、古墳時代の終末期に当たるこの時期は、大和政権による全国統一も最終段階に入り、氏姓制度による政治機構も各地に浸透しました、聖徳太子は推古3…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より 総習[23] これらの屯倉と共に、上毛野に設置されたとされる「緑野屯倉」があります、南武蔵の屯倉設置が6世紀中葉であり、同時期にここにも設置されたとするなら、藤岡市・七輿山古…

カテーテル手術検査及び追加手術

カテーテル手術の検査・追加手術は08年11月から10年4月までに、5度に亘っています、検査の度に、もう追加手術はないだろうと思っていくのですが、血管の老化、コレステロールの堆積による血管の梗塞が新たに見つかり、その都度手術をうけています(…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より 総習[22] 「橘花屯倉」地域では、白山古墳の前方部西角の位置に川崎市幸区・第六天古墳(円墳)が築造されています、複式構造の三味線胴張形横穴式石室内の組合式箱型石棺には11…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より 総習[21] 古墳時代前期において、宝萊山古墳・亀甲山古墳といった大前方後円墳を出現させた田園調布古墳群は、すぐ隣に続く野毛古墳群で野毛大塚古墳にみられるような活発な動きが…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より 総習[20] かって、大場盤雄氏は、狛江亀塚古墳の神人歌舞画像鏡は、高句麗人の移住開拓地と伝えられる大阪府河内の古墳(大阪府藤井寺市・長持山古墳、同八尾市・群川西塚古墳)と…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より 総習[19] 百済の国王から大和政権へ金鍍金された青銅製の仏像と経典が届けられたのは、538年とも552年ともいわれています、この新しい宗教は、これまでの自然物を神として崇…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より 総習[18] 前述のような想定の場合、「使主」と「小杵」の勢力範囲は北武蔵の中でとらえられ、「小熊」はそのまま上毛野の地とすることができるでしょう、つまり、それらは同一地域…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より 総習[17] 大和政権としてみれば、この上毛野の首長達は決して侮れない勢力であったに違いないことは、後に「朝臣」の称号が与えられていることからも類推されます、このもどかしさ…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より 総習[16] このように「北武蔵と上毛野の関係を探ってみると、やはり両地区に極めて強い関係があったことが理解されます、これは律令制はもちろん、国造による国の概念、具体的には…

俳句つくり 余情

今年の春はなかなか暖かくならず、老体にはきついものを感じます ”朝いちの洗顔の水温きかな” それでも、少しづつ気温は上がってきているようです ”鯉遊び鷺かすめるや桃の花” 天気が良くなり、やっと暖かさを感じるようになりましたので、散歩に出ました、…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より 総習[15] 古墳の築造企画を駆使した飯塚卓二氏の説によれば「群馬県高崎市・平塚古墳は、埼玉稲荷山古墳の相似墳と考えられ」、八幡観音塚古墳、高崎市・岩鼻二子山古墳と共に「八幡…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より 総習[14] 鈴に関しては、甘粕氏説で取り上げた「鈴鏡」の東国における分布が注目されます、なかでも、画文帯神獣鏡の分布と重なるように現れる鈴鏡については、単なる偶然ではない背…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より 総習[13] 埼玉・稲荷山古墳の礫槨からは金象嵌銘鉄剣をはじめに多数の副葬品が出土し、画文帯神獣鏡もこの中に含まれていました、鏡式は環状乳式画文帯神獣鏡で、この同型鏡(原鏡か…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より 総習[12] 一方、この時代に上毛野の保渡田三古墳に足並みを揃えるように、埼玉古墳群に大形前方後円墳の稲荷山古墳が出現しています、そして、これ以降も大形前方後円墳を主として…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より 総習[11] 三ッ寺Ⅰ遺跡は律令制下の群馬郡中央に位置するが、この地は「和名抄」の記載に「群馬」と表記されるようになっても「くるま」と訓まれていたとされ、この本来地名は「車持…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より 総習[10] 三ッ寺Ⅰ遺跡が単なる居館ではないことは南区画内の遺構と、それに伴う多くの滑石製摸造品・刀形木製品・獣骨・木の実・高坏を中心とする土器群の出土で理解され、「農業生…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より 総習[9] 5世紀第4四半期になると、上毛野と北武蔵で新たな勢力が出現します、上毛野では、現在の群馬郡に保渡田三古墳と呼ばれる前方後円墳(井出二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より 総習[8] 大和政権の第1次規制により、帆立貝形古墳を中心に円墳が築造され、前方後円墳が武蔵においてはみられなくなる5世紀第2・3四半期に、上毛野では、たしかに帆立貝形古墳…

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考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より 総習[7] これまで三角縁神獣鏡の分有などで支配関係が生まれていた南武蔵や上毛野を、ただ押え付けるのではより深い支配の浸透が達成されないと考えたためか、大和政権において定形…