入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より 総習[17]

大和政権としてみれば、この上毛野の首長達は決して侮れない勢力であったに違いないことは、後に「朝臣」の称号が与えられていることからも類推されます、このもどかしさは、きっと後の時代にまで語り継がれたに違いないのでしょう、多少の誇張も含まれていたことは想像されますが、奈良時代の宮廷にあって『日本書紀』に「武蔵国造の乱」が記されるとき、朝臣の地位にいるとはいえ上毛野に対しての評価は、とても優しいとはいえなかったでしょう

これまでみてきたように、上毛野の勢力範囲が北武蔵の地域にまで及んでいた(この範囲は、弥生時代後期の樽式・岩鼻式土器の分布に重なるようにとらえられる)とするならば、「武蔵国造の乱」に登場する3人の人物の挙動は、全て上毛野の勢力範囲の中でとらえることも可能となるでしょう

国造への組替えが、5世紀第4四半期以降6世紀末までかかり、現実には6世紀後半頃(この時期、外来文化を取り入れた特徴的な古墳が現れる)からその姿がはっきりしてくると考えられる中で、安閑天皇元年(534年、この年についても問題があるのかもしれないが)に国造」が存在したこと自体に矛盾があるといわねばならない、であるならば、元来「武蔵国造の乱」などなかったとするのが当然である

だが、国造の地位、すなわち地域の首長権と記事を読んだ場合、国家再編のための組織替えの中で起こった一つの権力闘争として新たな視点が生まれてくるように思われます