入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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2011-02-01から1ヶ月間の記事一覧

蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー4 蕨市には西小学校から第2中学校沿いに、比高1m程度のやや高い土地が長く延び、市役所方面に続いています、この一帯は古くからの集落や寺社が分布しています、このような微高地は戸田・川口・鳩ヶ谷市内にも分布し、過去の河川の洪水時に土…

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◇ 蕨の歴史ー3 武蔵野線付近から北は、標高14~16mの大宮台地となります、国道17号沿いでは、さいたま市南区白幡の白幡沼とさいたま市南区別所の別所小学校の間に「別所坂」と呼ばれる坂があり、旧道(中山道)でもさいたま市南区白幡の南浦和小学校…

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◇ 蕨の歴史ー2 蕨市の標高は、北西部の北町で約5m、南東部で約3mというように、おおむね北西から南東に傾斜しています、国道17号に沿って、国土地理院の水準点が設けられていますが、北町3丁目交番脇で5.63m、錦町1丁目で4.88mです、また…

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◇ 蕨の歴史ー1 自分は、現在蕨市塚越に住んでいますが、太平洋戦争の終わった時、蕨に移り住んできました、小学校は第1小学校(現在の北小学校)、第2小学校(現在の東小学校)しかなく、第1小学校へ1年生として転入しました、現在の中央7丁目・下蕨公…

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◇ 足立郡衙と足立氏-私的考察 ⑩ その後の武蔵には、「平将門の乱」に登場する足立郡司武蔵武芝や、保元・平治の乱を経て源頼朝の旗揚げに加わり、鎌倉幕府初期に活躍する足立遠元がいます 足立遠元には藤原氏の出自であるという「足立系図」もあり、また足…

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◇ 足立郡衙と足立氏-私的考察 ⑨ 『日本書紀』の安閑元年の条にある”武蔵国造の乱”は古来から続いた武蔵国造本家の継承争いであろうし、癸己の年(633年)に聖徳太子の舎人となり武蔵国造を賜った”物部連兄麻呂”、8世紀に入間宿穪となった”物部直広成”ら…

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◇ 足立郡衙と足立氏-私的考察 ⑧ エタモヒノ命が武蔵国造となったあと、それがどのように継承されていったかを示す史料はありません、武蔵一の宮に当たる大宮氷川神社の社家である西角井家に系図が存在し、出雲系の祖神アメノホノヒノ命に始まり、武蔵国造と…

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◇ 足立郡衙と足立氏-私的考察 ⑦ 地形が比較的平坦で、多くの河川が乱流していた武蔵国においては、河川やその流路周辺に河跡湖である沼・後背湿地を沢山抱えています、足立の地名も「芦立(アシダチ・葦が生い茂っていたところ)」「アダ・チ(川岸の崖の地…

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◇ 足立郡衙と足立氏-私的考察 ⑥ 大久保領家・道場付近は古期利根川の東遷により、水源が失われた毛長川(古入間川)の自然堤防や湿地があり(自然堤防は足立区伊興方面からの川沿いの陸上交通路であったとも思われます)、また、形成されつつある荒川(中期…

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◇ 足立郡衙と足立氏-私的考察 ⑤ 律令時代の初めまでは、東山道方面と東京湾方面を結ぶ往還として、古利根川、元荒川、綾瀬川などの水路(東山道武蔵原始路とも云える路)を利用し、そして、井上(松戸付近)から豊島群衙への路があったであろうと思います(…

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◇ 足立郡衙と足立氏-私的考察 ④ 東山道方面、上毛野、北武蔵から東京湾方面への交通・交易・移動は律令体制が確立し、東山道武蔵路が整備されるまで、主に古利根川・元荒川・綾瀬川・芝川などの河川を利用した水路だったのではないかと思われます 鴨川・鴻…

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◇ 足立郡衙と足立氏-私的考察 ③ 埼玉古墳群や各地に古墳を築いた氏族の首長たちは、台地周辺の水路・陸路を通じてネットワークを組み、弥生文化・朝鮮半島・中国大陸の文化を積極的に取り入れるようになっていったのでしょう、特に武蔵に於いて水路は、台地…

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◇ 足立郡衙と足立氏-私的考察 ② 海退が更に進み、台地周辺部のデルタに川筋が序々にでき、その流れも古期利根川、古入間川の出現から元荒川、古利根川、中期入間川へと変わっていったようです、そして、川の流れの縁には自然堤防と呼ばれる微高地ができます…

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◇ 足立郡衙と足立氏-私的考察 ① 諸先生方の考察・論文・講義録などを見てきましたが、その間に、自分なりに思いついたと言うか、気になったことを(空想、思い込みに近いのですが)私的な推測として、述べて見ます 縄文海進・海退後の鳩ヶ谷支台を含む大宮…

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◇ 足立郡衙と足立氏-21 この2つの戦乱は、武士階級が初めて歴史の表舞台に登場してきた事件であり、その実力をまざまざと見せ付けるものでした、これらの乱には多くの武蔵武士が参加しており、その様子を描いた『保元物語』や『平治物語』には、秩父・横…

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◇ 足立郡衙と足立氏-20 12世紀の中頃、つまり鳥羽院政の末期、皇位の継承をめぐって鳥羽法皇と崇徳上皇の対立が強まっていました、また摂関家においても、関白藤原忠通と弟の左大臣藤原頼長が、関白の地位をめぐって対立していました そして、保元元年…

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◇ 足立郡衙と足立氏-19 関東で「平忠常の乱」が起こっていた頃、奥羽では「俘囚の長」と呼ばれた在地の豪族阿部氏の反乱がありました、「前九年の役」と言われるこの乱には、「平忠常の乱」鎮定でその力を認められた源頼信の子頼義が、陸奥守兼鎮守府将軍…

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◇ 足立郡衙と足立氏-18 坂東八平氏は、寛平二年(890年)に平姓を与えられて上総介となり、関東に下った桓武天皇の曾孫高望王の子孫です、彼らは、武蔵・上総・下総・安房・上野・下野・常陸・相模を舞台にして国司・押領使・追捕使・鎮守府将軍などを…

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◇ 足立郡衙と足立氏-17 平忠常は、上総介・武蔵押領使・下総権介を歴任し、武総の地にその権勢を誇っていました、広大な私有田を有し、その力は国司をしのぐ程の者であったと言われています、この力を背景として国衙に対して調・庸を納めず、官物を掠奪す…

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◇ 足立郡衙と足立氏-16 この将門謀反の知らせは直ちに京都に達しましたが、時の政府には自らこの乱を鎮定する力はありませんでした、天慶三年(940年)藤原忠文が征東大将軍に任命されましたが、実際に将門追討に功があったのは、彼と彼が率いる追討軍…

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◇ 足立郡衙と足立氏-15 将門の仲介は功を奏し、両者の関係は一時和解へと向かいました、しかし、どうした手違いからか武芝の軍勢が経基の館を囲んだため、経基は将門と武芝・興世王らが連合して攻めたものと疑い、急いで上京し、天慶二年(939年)三月…

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◇ 足立郡衙と足立氏-14 承平八年(938年)二月、武蔵国で足立郡司武蔵武芝と武蔵権守興世王(ごんのかみおきよおう)・武蔵介源経基(つねもと)との間に対立が起きました、新任の権守興世王が足立郡に入り、その状態を調査しようとしたところ、足立郡…

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◇ 足立郡衙と足立氏-13 9世紀以降、関東においては中央から赴任してきた国司が任地に土着する傾向が目立ってきます、彼らは藤原政権から疎外された人々で、地方においてその勢力基盤を確立しようとしたのです、その代表的な例が桓武平氏です 桓武平氏の…

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◇ 足立郡衙と足立氏-12 しかし、こうした警察権の強化にもかかわらず、治安が回復する兆候はみられませんでした、昌泰年間(898~901年)には、僦馬(しゅうば)の党と呼ばれる馬を利用した強盗の集団が、東海・東山の両道をまたにかけて暴れまわっ…

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◇ 足立郡衙と足立氏-11 律令国家体制が次第に変質していき、藤原氏を中心とする摂関政治が行われるようになると、藤原氏を除く多くの貴族は高位高官から締めだされていきました、彼らの多くは国司として地方へ下向する傾向が目立ってきます、地方に下向し…

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◇ 足立郡衙と足立氏-10 耕地されていない土地がひろがり、しかも地形が比較的平坦である武蔵国は、牧草の生産に適していたこともあり、各地に古くから牧が設置されていました、牧には勅旨牧・官牧・私牧があり、勅旨牧としての足立郡大牧(さいたま市)か…

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◇ 足立郡衙と足立氏-9 墾田の不足を補うために8世紀の前半に施行された三世一身法・墾田永年私財法により、以後、寺社や貴族、あるいは、在地豪族などの手により大規模な荘園経営が行われるようになりました、中でも寺社や貴族は、自己の持つ政治的な地位…

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◇ 足立郡衙と足立氏-8 律令体制の基盤となっていた斑田収授法は、8世紀の初頭には口分田(くぶんでん)の不足からすでにうまく機能しなくなってきました、そこで、律令政府は養老六年(722年)には100万町歩の開墾計画をたてましたがうまくいかず、…