2011-02-12 蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る 考古・歴史 #人類学と考古学 ◇ 足立郡衙と足立氏-19 関東で「平忠常の乱」が起こっていた頃、奥羽では「俘囚の長」と呼ばれた在地の豪族阿部氏の反乱がありました、「前九年の役」と言われるこの乱には、「平忠常の乱」鎮定でその力を認められた源頼信の子頼義が、陸奥守兼鎮守府将軍に任じられ、鎮定を命じられました、彼は関東で声望のあった源氏の棟梁でしたが、苦戦の末これを康平五年(1062年)に平定しました この乱から20年後、今度は清原氏一族の内訌から再び奥羽で争乱が起こります、「後三年の役」と呼ばれるこの乱は、鎮定に源頼義の子義家が陸奥守兼鎮守府将軍に任じられ、寛治元年(1087年)に平定されます この二度の役には、多くの関東の武士たちが出陣しています、ここで注目すべきはことは、これらの武士の中には、官符によって徴募された者とは別に、頼義・義家の私的な武士団も含まれていたことです、こうした私的武士団の中核となるものは郎党ですが、彼らは、国司に従う郎党がその任期限りの主従関係にあるのとは異なり、主君の地位の変動に関係なく最後まで主君に仕える者が多かったことです このような強固な主従関係は武士団において特徴的なものであり、義家の頃から強くみられるようになったものです、「後三年の役」の後、朝廷はこれを私闘とみなして公的な行賞を行いませんでした、そのため義家は、私財を投じて従軍した東国の武士たちをねぎらいました そして、これを契機に、源氏と坂東の武士の間には強い人間的信頼関係が生まれることとなります、関東の武士団の多くは、源氏を武門の棟梁と仰ぎ、私的な主従関係を結んで行くのです