入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

学び合い 〔仲間募集〕 ℡ 048-432-1433

蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 足立郡衙と足立氏-20

12世紀の中頃、つまり鳥羽院政の末期、皇位の継承をめぐって鳥羽法皇崇徳上皇の対立が強まっていました、また摂関家においても、関白藤原忠通と弟の左大臣藤原頼長が、関白の地位をめぐって対立していました

そして、保元元年(1156年)に鳥羽法皇が没すると、忠通と結んだ後白河天皇と頼長と結んだ崇徳上皇との対立は頂点に達しました、上皇側は源為義平忠正などを招いて挙兵し、天皇側は源義朝平清盛らをもってこれに対抗しました、これが「保元の乱」です、戦いは天皇方の勝利に終り、崇徳上皇讃岐国に流され、頼長は戦死、為義・忠正は斬首されました

保元の乱の後、後白河上皇のもとで権勢を握った平清盛に対して、乱の行賞に不満を持つ源義朝は、当時の権力者藤原通憲信西)に対して不満を抱く藤原信頼と結び、清盛・通憲を除こうとしました、平治元年(1159年)、義朝・信頼は清盛が熊野参詣に出かけた留守をねらって兵を挙げ、後白河上皇を幽閉し通憲を殺しました

この報に接した清盛は途中から京都に帰り、義朝に対抗する体制を整え、義朝を破りました、義朝は東国に逃れ再起を図ろうとしましたが、途中、尾張国において謀殺され、その子頼朝は捕えられて伊豆国に流刑となりました、この「平治の乱」により源氏は大きな痛手を受け、以後、一時その勢力は衰退することとなります