入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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2011-06-01から1ヶ月間の記事一覧

蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー108 しかし、国清と諸将との不和が表面化し、基氏も国清を追放せざるを得なくなりました、後任に師冬の甥師有がなったものの、基氏は憲顕(法名道昌)の復帰を求める幕府の要請を受け、憲顕は貞治2年(1363年)に鎌倉に帰り、関東管領に…

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◇ 蕨の歴史ー107 尊氏は文和2年(1353年)7月京都に帰りましたが、関東の情勢は依然として不安定であったため、基氏を武蔵の入間川に在陣させて新田義興らの動きをけん制させました、以来、およそ7年ほど滞在を続けたこともあって、基氏は入間川殿…

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◇ 蕨の歴史ー106 蕨郷がいつ渋川氏の所領となったかは不明ですが、足利氏が建武政権成立以来武蔵国を、なかでも足立郡を重要視してきたことは想像できます 事実、足利一族や幕府の近習(主君のそばに仕える家来)などと関係のあった足立郡内の地名などを…

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◇ 蕨の歴史ー105 この擾乱の最中に「賀上(かがみ)家文書」の渋川直頼譲状が作成されています、二つの文書はもとは一通の文書で、直頼が所領・所職12ヵ国22ヵ所を金王丸に譲るというものです、金王丸は元服以前の名前であり、『尊卑分脈』などから直…

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◇ 蕨の歴史ー104 同年閏2月、この擾乱の混乱を狙って、新田義貞の遺児義興・義宗兄弟が上野国で蜂起し、信濃国にいた後醍醐天皇の皇子宗良親王を奉じて、武蔵国から鎌倉に攻め入ろうとしました、武蔵の西部・北部の多数の武士がこれに加勢しました 鎌倉…

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◇ 蕨の歴史ー103 師直が亡くなった後、いったんは和睦した尊氏と直義でしたが、対立が再び激化しはじめました 同年7月、直義は京都を逃れ、上杉憲顕を頼って鎌倉に入りました、これに対して尊氏は、10月に直義討伐のため京都での政務を嫡子義詮に任せ…

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◇ 蕨の歴史ー102 室町幕府の草創期は、尊氏と弟の直義の間で権限の分割が行われ、御家人との主従制的支配権を尊氏が、公的・領域的な統治権的支配権を直義が握った二頭政治体制がとられました しかし、こうした権力の分割は分裂の危機をはらむものでした…

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◇ 蕨の歴史ー101 建武2年11月、後醍醐天皇は尊氏・直義兄弟の討伐を決意、二人の官位を剥奪し、新田義貞らの軍勢を派遣しました、これに対し尊氏軍は同年12月に箱根竹の下の合戦で新田軍を撃破、翌年1月上洛して一時京都を占拠しましたが、北畠顕家…

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◇ 蕨の歴史ー100 一方、鎌倉親王府の実権を握っていた足利直義は劣勢の挽回を図ろうとしましたが、武蔵国井出沢(東京都町田市)の合戦に敗れたため、鎌倉に幽閉中の護良親王を殺害後、三河の矢作(愛知県岡崎市)に逃れました、こうして時行軍がいったん…

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◇ 蕨の歴史ー99 後醍醐の打ち出した政策は、建武年間(1334~1338年)に入ると各地に失望や不満を招き、北条氏や遺臣らの反乱となってあらわれました、建武元年3月本間・渋谷両氏の反乱軍が鎌倉に侵入し合戦となりました、これに対しては渋川義季…

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◇ 蕨の歴史ー98 ところで延元元年(建武3年)4月の武者所結番表に足立遠宣の名が見えます、遠宣は霜月騒動で敗死した足立氏の嫡流直元の弟基氏の曾孫にあたります、動乱期の行動は不明ですが、建武元年9月27日後醍醐天皇の賀茂社行幸に供奉する尊氏の…

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◇ 蕨の歴史ー97 新政権は、鎌倉には幼少の成良(しげよし)親王(後醍醐天皇皇子)を派遣するとともに、尊氏の弟直義(ただよし)にこれを補佐させ、その警護のため「関東廂番(ひさしばん)」を置きました、この構成員は、渋川・仁木・河越・高ら足利方の…

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◇ 蕨の歴史ー96 元弘3年(1333年)5月、新田義貞の鎌倉攻撃、叛旗を翻した足利高氏の六波羅探題攻略によって鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇を中心とした新政権が発足しました、後醍醐天皇は記録所を復活し、雑所決断所・恩賞方・武者所を新設しました、…

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◇ 蕨の歴史ー95 六波羅探題北条仲時・時益一行は、光厳(こうげん)天皇(北朝)を奉じ逃げようとしましたが、途中近江国番場の宿(滋賀県米原市)で野伏の夜襲にあい、蓮華寺において自殺して果て、六波羅探題は滅びました 自殺した人々は430余人とい…

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◇ 蕨の歴史ー94 その後、正成が紀伊・河内に兵を挙げると護良親王(もりよししんのう・後醍醐天皇皇子)が吉野(奈良県吉野町)で、さらには播磨で赤松円心、伊予では河野一族が蜂起しました、幕府は六波羅の軍勢を派遣すれば平定できるものと思っていまし…

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◇ 蕨の歴史ー93 一方、京都では、後醍醐天皇が皇位につくと後宇多院政を引き継いで天皇中心の親政をしいていました、後醍醐天皇は「朕が新儀は後代の儀範」という意気込みのもとに、人材登用、物資の流通や政治機構の改革などに着手していきました しかし…

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◇ 蕨の歴史ー92 北条貞時の後、得宗家を継いだのはその子の高時でした、しかし、高時は統治能力を欠き、泰時の代依頼の「政道正直」の遺産と得宗家、それを補佐する御内人(長崎円喜・高資)や外戚(安達時顕)の専制支配によってかろうじて幕府運営の体面…

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◇ 蕨の歴史ー91 見つかった文書によれば、上野国渋川(群馬県市渋川市)が渋川氏の苗字の地といわれていたことが裏付けられており、下野国足利庄板倉郷(栃木県足利市)を所領としていることから、渋川氏が足利氏の一族であることや、『尊卑分脈』に渋川義…

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◇ 蕨の歴史ー90 これまで渋川氏と武蔵国および蕨との関係を語る際には、『鎌倉大草紙』に大きく依存していましたが、しかし、最近見つかった広島県三原市八幡町美生(やはたちょうみのう)の賀上晋次(かがみしんじ)家に伝わる文書によれば、渋川氏と武蔵…

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◇ 蕨の歴史ー89 この乱の結果、敗れた安達一族は大部分が自害または討ち死にしました、幕府の政治体制は、御家人勢力を全く排除した内管領と、得宗の側近らを中心とした得宗専制政治として確立しました さらに、時宋の子の貞時が成長すると御内人平頼綱を…

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◇ 蕨の歴史ー88 時宗の時代には、「御内人(みうちびと)」と呼ばれる得宗家の被官を政治機構の中にとり込み、執権という地位とは関係なく、得宗家が主導権を掌握できるようにすることに成功しています、しかし、御内人の中でも筆頭は内管領(うちのかんれ…

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◇ 蕨の歴史ー87 宝治元年(1247年)6月の宝治合戦で三浦氏を倒し、幕府の実験を握った北条時頼は、家督(得宗・とくそう)を子の時宗に譲り、執権職に北条長時を任命してこれを補佐させました、しかし、依然として時頼が実権を握っており、重要政策の…

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◇ 蕨の歴史ー86 鳩ヶ谷郷は、現在の鳩ヶ谷市にあった郷名で、地頭職を所持していたのは、桓武平氏の流れをくむといわれている鳩谷兵衛重元でした 鳩谷重元は、寛元2年(1244年)鳩谷郷地頭職につき復権を求めて訴訟を起こしており、その際もし裁判で…