2011-06-25 蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る 考古・歴史 #人類学と考古学 ◇ 蕨の歴史ー103 師直が亡くなった後、いったんは和睦した尊氏と直義でしたが、対立が再び激化しはじめました 同年7月、直義は京都を逃れ、上杉憲顕を頼って鎌倉に入りました、これに対して尊氏は、10月に直義討伐のため京都での政務を嫡子義詮に任せ、南朝と和睦し大軍を率いて東下しました、そのためしばらくは尊氏も南朝の「正平ーしょうへい」の年号を使うことになります 尊氏と直義兄弟の争いに発展した観応の擾乱は、各地の武士をも巻き込み拡大の様相を見せていきましたが、武蔵武士もまた、安保(あぼ)・別府・岡部氏らの尊氏派と、児玉・藤田・猪俣らの直義派に分かれて争いました なかでも高麗経澄(こまつねずみ)は、初め直義方に属していましたが、薬師寺加賀守入道と談合の後は尊氏方に属し、同年12月19日羽祢蔵(はねくら)(さいたま市・富士見市・志木市にまたがる地域)において、直義方の難波田(なんばた)九郎三郎を討ち取っています 尊氏は2月直義と和睦し、次いで観応3年1月、鎌倉に入りました、しかし、翌月に直義は毒殺され、擾乱に終止符がうたれました