入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

学び合い 〔仲間募集〕 ℡ 048-432-1433

2008-10-01から1ヶ月間の記事一覧

蕨、戸田、川口、鳩ケ谷の古を探る

鳩ケ谷の古を考える・三ッ和遺跡第1次調査 第1号住居址出土土器実測図です

蕨、戸田、川口、鳩ケ谷の古を探る

鳩ケ谷の古を考える・三ッ和遺跡第1次調査 第1号住居址出土の土器です

蕨、戸田、川口、鳩ケ谷の古を探る

鳩ケ谷の古を考える・三ッ和遺跡1次調査 三ッ和遺跡の第1次調査は、昭和56年の夏約1ヵ月半をかけて行われました、500×1000メートルの規模を有する三ッ和遺跡のうち800平方メートルという限られた範囲の調査でしたが、弥生時代から中世までの…

蕨、戸田、川口、鳩ケ谷の古を探る

鳩ケ谷の古を考える・三ッ和遺跡 三ッ和遺跡は、毛長川(古期入間川)とそれより更に古い河川流路跡に挟まれた自然堤防上の遺跡ですが、これらの水路が古墳時代前後の集落の形成に大きな役割を果たしていたようです、流路付近には、鳩ケ谷市域で三つ和遺跡の…

蕨、戸田、川口、鳩ケ谷の古を探る

鳩ケ谷の古を考える・三ッ和遺跡 大宮台地周辺では、弥生時代後期には小支谷の開発による谷田経営が中心でしたが、低地への進出は灌漑農耕による水田開発を活発に行うようになったためと考えられます、三ッ和遺跡では、灌漑施設や水田跡、農耕具などは検出さ…

蕨、戸田、川口、鳩ケ谷の古を探る

鳩ケ谷の古を考える・三ッ和遺跡 鳩ケ谷市三ッ和遺跡は、自然堤防上にある古墳時代前期(4世紀)の集落です、昭和56年鳩ケ谷市の八幡木土地区画整理事業に伴い、発掘調査されました、八幡木の八幡木神社の周辺から住居群と方形周溝墓が検出されています、…

俳句つくり 余情

”山肌を伝うスリルや谷紅葉” 新聞記事からの句です、山岳地方ではもう紅葉が盛りのようです ”句を選ぶ眼をいやすかな秋の空” 自分の手もとには、今迄に読んだ俳句の資料が一応整理してあり、その中から季節にあった句を選びだして、アップしています、その作…

俳句つくり 余情

”明け方の空満月のひとり占め” ブログの更新を終え、朝刊をとりに行って、ふと、空を見ると、明け始めた西の空に満月が残っていました、輝いていた星も見えなくなり、澄みわたった秋の朝の空は月のほかに何ひとつなく月の天下のようでした ”ものは来ず写真メ…

俳句つくり 余情

気分を変えて俳句にします サブプライムローン問題によるアメリカ発の金融危機が発生し、世界の経済、社会は混乱を極め、それに対して自分の頭脳を調整するために、なかなか俳句モードにならず、うまく句作が進みませんでした、駄作ばかりですが、なんとか作…

蕨、戸田、川口、鳩ケ谷の古を探る

鳩ケ谷の古を考える 何日か前に、イラストで掲げました浦寺遺跡と里字北谷第1遺跡出土の石器の写真が見つかりましたので掲載します、上の3点は浦寺遺跡からのもの、下の4点は里字北谷第1遺跡からのものです 浦寺遺跡から出土した石器は3点あり、1点は…

蕨、戸田、川口、鳩ケ谷の古を探る

鳩ケ谷の古を考える しかし、だんだんと集落が大きくなり、台地を刻む谷田を開発し、水田とするだけでは増大する人口を支えることができなくなり、集団ごと広い可耕地を求めて、低地帯の自然堤防上などへ進出するようになったのでしょう 一方、東海地方から…

蕨、戸田、川口、鳩ケ谷の古を探る

鳩ケ谷の古を考える 統率者として次第に力を蓄えた首長は、リーダーとしてムラの人々より一段と抜きんでた存在となり、その力を皆に誇示するようになったのでしょう、さいたま市井沼方遺跡では環濠遺跡の外側に方形周溝墓とよばれる墓地が発見されていますが…

蕨、戸田、川口、鳩ケ谷の古を探る

鳩ケ谷の古を考える 大宮台地の環濠集落は規模でみれば、西日本のそれよりも、見劣りがします、さいたま市馬場北遺跡で東西約70メートル・南北90メートルです、鳩ケ谷市に最も近接する環濠遺跡は鳩ケ谷市台最先端に位置する川口市東本郷遺跡があります …

蕨、戸田、川口、鳩ケ谷の古を探る

鳩ケ谷の古を考える 関東地方では横浜市の大塚遺跡で、環濠遺跡が全掘されています、約90軒の住居跡と倉庫跡が200メートル×130メートルの規模の濠に囲まれています

蕨、戸田、川口、鳩ケ谷の古を探る

鳩ケ谷の古を考える 弥生後期後半から邪馬台国の時代(3世紀)になると大宮台地の農耕集落も規模が大きくなり、周囲が溝で囲まれる環濠集落が現れます 環濠集落は単に濠がめぐるだけでなく、濠の外側に掘った土を積み上げて土塁を築き、土塁上には柵をめぐ…

蕨、戸田、川口、鳩ケ谷の古を探る

鳩ケ谷の古を考える 2世紀から3世紀になると、大宮台地には数多くの農耕集落がみられるようになります、大型住居を中心として、数棟から成り立ち、家長を中心にその家族が集住していたようです、この集住が河川や谷に沿って点々とある場合と、いくつかの集…

蕨、戸田、川口、鳩ケ谷の古を探る

鳩ケ谷の古を考える 北島遺跡(埼玉県熊谷市) 堰・灌漑施設・水田跡ほかの遺跡で、東日本有数の弥生集落のようです

蕨、戸田、川口、鳩ケ谷の古を探る

鳩ケ谷の古を考える 熊谷市の池上遺跡では集住する集落があり、小敷田遺跡では住居数軒からなる集落が点在して存在していることが確認されました、そして、これらに後続する弥生中期後半(紀元前1世紀)の北島遺跡では、集落・耕地・灌漑施設がまとまって検…

蕨、戸田、川口、鳩ケ谷の古を探る

鳩ケ谷の古を考える 約2500年前の縄文時代晩期の後半には、鳩ケ谷支台周辺には遺跡が激減し、海岸線が現在の位置とほぼ同じになったとみられ、縄文時代に残された海の跡は湿地帯となってゆきました、縄文文化が衰退したことがうかがわれますが、この頃、…

蕨、戸田、川口、鳩ケ谷の古を探る

鳩ケ谷の古を考える 約4000年前の中期には海岸線が少しずつ後退していき、大宮台地では貝塚が減少しています、しかし、鳩ケ谷支台と荒川を挟んで対岸にある東京都北区の中里貝塚は武蔵野台地の低地性の貝塚で、1996年の発掘で極めて大きな貝塚である…

蕨、戸田、川口、鳩ケ谷の古を探る

鳩ケ谷の古を考える 約7000年前の縄文早期後半になると、大宮台地周辺の低地にも海が侵入してきました、海水の侵入によって形成された海水域は、奥東京湾と呼ばれています、当時住んだ人々が海産物を採って食べ貝殻を捨てた結果、貝塚ができ始めますが、…

蕨、戸田、川口、鳩ケ谷の古を探る

鳩ケ谷の古を考える 約1万3千年前、地球は全体に温暖化し、1万年前には現在とほぼ同じ気候となりました、地質学でいう更新世から完新世への移行に伴う温暖化で、自然環境は大きく変化しました、氷河が溶けて海面が上昇した結果、日本列島は大陸から離れて…

蕨、戸田、川口、鳩ケ谷の古を探る

鳩ケ谷の古を考える 鳩ケ谷市は大宮台地のうちの鳩ケ谷支台とそれに続く低地とからなっています、標高の高いところは20メートル弱で、低地に臨む崖面では10~15メートルです、周辺から台地に刻む小規模な谷が侵入しているため全体としては極めて起伏に…

蕨、戸田、川口、鳩ケ谷の古を探る

鳩ケ谷の古を考える 浦寺遺跡 昭和34年(1959)景山博少年によって、崖面から偶然発見された縦長の流紋岩剥片(図1)は、調整痕や刃こぼれなど刃の部分が3面に認められることから、掻器と削器の両機能を備えたスクレイパーのようです、また他にも、…

蕨、戸田、川口、鳩ケ谷の古を探る

鳩ケ谷の古を考える 浦寺遺跡 今から2万数千年前、富士山を初めとして関東周辺の火山は盛んに噴火して、その火山灰を周辺に降らしていたようですが、その後、一時期火山活動は中絶した時期があったようです、この時期が関東ローム層の中に見られる3層の黒…

蕨、戸田、川口、鳩ケ谷の古を探る

鳩ケ谷の古を考える 荒川・利根川の流路変遷 鳩ケ谷市は西の武蔵野台地と東の下総台地の間に広がる低地の中央部に張り出した岬の先端部から低地にかけての位置にあります 荒川低地と中川低地の名称は、両河川によって形成されたことを意味するものでなく、近…

蕨、戸田、川口、鳩ケ谷の古を探る

鳩ケ谷の古を考える 鳩ケ谷を中心とした埼玉・東京周辺地形図です、古期入間川は想像される流路です

蕨、戸田、川口、鳩ケ谷の古を探る

鳩ケ谷の古を考える 想像される川口、鳩ケ谷地区での大古の入間川の流れです、川といっても現在見られる川とは少し違い、広い湿地帯の中に所々に微高地があり、それらの間をぬうように幅の広いゆったりとした流れがあったのではないかと思われます

蕨市政・中央公民館2階出入り口

中央公民間2階出入り口について 最近、個人的な集まりで蕨市中央公民館を利用して感じたことですが、大ホールとは反対側に位置する中央公民館2階への出入り口が非常に判り難く、行く度に迷ってしまいます、掃除などの仕事をしている年輩の人々に尋ねても、…

蕨、戸田、川口、鳩ケ谷の古を探る

鳩ケ谷の古を考える 鳩ケ谷市の地形地質分類図です、昨日アップした航空写真をよく見ますと、上図の他にもっと古い(弥生時代以前か)河道が市を上下に(坂下町右側部)貫いていたようにもみえます、今後の研究課題かもしれません、いずれにしましても、鳩ケ…