入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ケ谷の古を探る

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鳩ケ谷の古を考える

熊谷市の池上遺跡では集住する集落があり、小敷田遺跡では住居数軒からなる集落が点在して存在していることが確認されました、そして、これらに後続する弥生中期後半(紀元前1世紀)の北島遺跡では、集落・耕地・灌漑施設がまとまって検出されました、北島では、蛇行して流れる川に堰を、それを管理できる近接地の自然堤防に集落を、堰から引きいれた水を自然堤防を突っ切った水路から水田に引く状況が具体的にわかったのです、灌漑排水を行う低地の集落は生産力が高いのですが、洪水の恐怖にも直面せねばなりませんでした、北島遺跡も洪水による厚い土砂で覆われており、他へ移動せざるをえませんでした

同じ頃、県南部の台地上でも農耕集落が増加します、大宮台地はリアス式海岸のようにおぼれ谷が発達しており、谷津と呼ばれています、谷津は湿潤度の高い低湿地で、集落は谷津に面する台地上に数多く確認されています、谷田(やつだ)と呼ばれる水田を開き、耕作していたと考えられます

鳩ケ谷市域では遺跡は確認されていませんが、芝川流域の見沼低地に面した鳩ケ谷支台上には、さいたま市大和田本村(ほんむら)遺跡、御蔵(みくら)山遺跡、上野田(かみのだ)西台遺跡、明花向(みょうばなむかい)遺跡、大北遺跡、川口市小谷場遺跡などが発掘調査されています、見沼低地のたんぼ作りは、この頃から始められたようです

これらの遺跡が面する谷津は、台地の縁辺から湧きだす水を利用し、谷の緩傾斜に順応して配水・排水することで水田化が容易でした、しかし、この水田の土壌は米の平均収量がかなり低くて人口の増加を支えることができないため、集落の規模も5~7軒程度の小規模のものでした、台地上の集落は、水田の土壌が悪化して耕作が不可能になると他へ移動せざるを得ませんでした、そのためこれらの集落で長期間営まれたものは少なく、弥生後期前半(1世紀)の遺跡は大宮台地には全く認められないような状況となります、再び集落が営まれるようになるのは、100~150年ほどたった弥生後期後半(2世紀後半)になってからです