2008-10-17 蕨、戸田、川口、鳩ケ谷の古を探る 考古・歴史 #埼玉県 鳩ケ谷の古を考える 弥生後期後半から邪馬台国の時代(3世紀)になると大宮台地の農耕集落も規模が大きくなり、周囲が溝で囲まれる環濠集落が現れます 環濠集落は単に濠がめぐるだけでなく、濠の外側に掘った土を積み上げて土塁を築き、土塁上には柵をめぐらしているようです、愛知県朝日遺跡では環濠の外に杭を立て、それにもたせかけるように木の幹や枝を外側に向けて置いてあり、逆茂木(さかもぎ)という敵の侵入を防ぐためにとげのある木の枝をさし並べています この時代の住居跡は、火災にあったものが、多くみられます、川口市七郷神社裏遺跡では5軒のうち3軒、さいたま市中里前原遺跡では12軒のうち7軒が焼失しています、田の造成をめぐる土地争いや水争い、鉄器など先進物資の入手ルートの確保をめぐる交易上の争いなど、ムラとムラの争いがあったのでしょう 鳩ケ谷市の近くでは、川口市東本郷遺跡、さいたま市馬場北遺跡、中里前原遺跡、井沼方遺跡などがあり、溝で囲まれているところから防御的性格の強い集落と考えられています、ムラ同士の緊張関係があり、争いがあったのでしょう この頃、大和盆地を中心とした西日本では、女王”卑弥呼”を立て、連合して”邪馬台国”としてまとまるようになったことが中国の史書に書かれています、遠く離れた鳩ケ谷市周辺でもムラとムラは、共同の開発や争いを通じて次第にまとまるようになり、統率した有力者は次第に力を蓄え首長として成長していったのでしょう ※ なお、”卑弥呼、邪馬台国、吉野ヶ里遺跡、環濠集落”については別項のシリーズを設けて勉強するつもりですので、よろしくお願いします