入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ケ谷の古を探る

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鳩ケ谷の古を考える

約7000年前の縄文早期後半になると、大宮台地周辺の低地にも海が侵入してきました、海水の侵入によって形成された海水域は、奥東京湾と呼ばれています、当時住んだ人々が海産物を採って食べ貝殻を捨てた結果、貝塚ができ始めますが、時期によって貝塚の分布には相違がみられ、奥東京湾の海岸線の移動を知ることができます、さいたま市五味貝戸貝塚上尾市平方貝塚などが知られていますが、まだ、小規模のものです、鳩ケ谷市里字諏訪内第1遺跡からは、この時期の土器片が出土していますが、遺構は確認されていません

約6000年前の縄文前期は、海進の最盛期で、大宮台地と下総台地の間の中川低地では、海岸線が栃木県藤岡町付近にまで達していました、大宮台地は入江やおぼれ谷が発達し、入江や谷に注ぐ河川から運ばれる土砂と打ち寄せる砂によって、遠浅の海辺が形成されました、そのため、浅海・砂泥には、アサリ・ハマグリ・ハイガイ・カキなどの貝類や小型魚類が豊富にいました、遠浅の海辺に面した台地上には、数多くの貝塚が形成されました、鳩ケ谷市域に近いところでは、川口市小谷場貝塚さいたま市大谷場貝塚蓮田市黒浜貝塚さいたま市黒谷貝塚などがあります

荒川を挟んだ武蔵野台地上にある水子貝塚は、中央の広場を囲んで径160メートルの範囲に約60ヵ所の地点貝塚が環状に分布しています、地点貝塚は竪穴住居に貝が捨てられて作られたもので、環状に分布していることは住居が環状に配置されていたことを示しています、1時期には5軒前後で、広場を中心に長い間の定住生活で新築や建て替えを繰り返し、何世代にもわたって生成されたもののようです、この貝塚からは、カツオ・クロダイ・トビエイ・スズキ・コイなどの魚類、イノシシ・シカ・タヌキ・ノウサギなどの獣骨、タンチョウズルなどの鳥類、クルミ・クリ・クヌギなどの木の実の殻も出土しています、年間を通じて食料が豊富なため、長期間の定住生活が保障されていたのでしょう

鳩ケ谷支台は半島状に突き出していたために、波が打ち寄せて台地のすそが洗われた岩礁地帯の環境のため貝類の採取には適さない地形であったと考えられ、貝塚の分布はまれとなっています