2011-06-27 蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る 考古・歴史 #人類学と考古学 ◇ 蕨の歴史ー105 この擾乱の最中に「賀上(かがみ)家文書」の渋川直頼譲状が作成されています、二つの文書はもとは一通の文書で、直頼が所領・所職12ヵ国22ヵ所を金王丸に譲るというものです、金王丸は元服以前の名前であり、『尊卑分脈』などから直頼の子の義行と思われます、譲状に記された武蔵国の所領は、本領と思われる板倉郷・渋川郷に次いで3ヵ所があげられています、このことは渋川氏にとって武蔵国に持つ所領がいかに重要なものであったかを物語っています 譲状に見える上・下蕨郷の郷域や村落の実態は不明ですが、現在の蕨市を中心とした地域であったと思われ、渋川義行が蕨の地を知行したという『鎌倉大草紙』の記述を裏付けているだけでなく、義行の父直頼の代に蕨郷が渋川氏の所領となっていたことが判ります この譲状が蕨という地名の初見資料ですが、南北朝期に蕨郷が上・下に分かれていたことを考えると、分割以前の蕨の姿は鎌倉期までさかのぼれることになるでしょう 大麻生郷、遊馬(あずま)郷、などの地名も、資料によって確認できる最初のものとして重要です、延文6年(1361年)9月9日付の文書を応永3年(1415年)7月20日に書写したとされる「市場之祭文写」という資料がありますが、これに蕨・遊馬が現れることは、決して根拠のないものではなかったことがわかります