入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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◇ 蕨の歴史ー88

時宗の時代には、「御内人(みうちびと)」と呼ばれる得宗家の被官を政治機構の中にとり込み、執権という地位とは関係なく、得宗家が主導権を掌握できるようにすることに成功しています、しかし、御内人の中でも筆頭は内管領(うちのかんれい)と呼ばれた平頼綱が、時の執権をもしのぐ権勢を持つようになり、幕府草創以来の御家人(「御内人」に対し「外様・とざま」と呼ばれた)で北条氏とも姻戚関係にあった安達氏と対立するようになりました

時宗が死去すると両者の対立は一層激化し、北条氏一族による御家人安達泰盛(やすもり)一族の討伐へと発展しました、弘安8年(1285年)11月に起きた霜月(しもつき)騒動がそれです

この乱に安達氏側として多くの武蔵武士が参加しましたが、足立直元もその一人でした、直元が安達氏側に参加した理由は、頼朝が付与した足立氏の本領足立郡を私領として認めず公領と裁定したことにありました

私領であることは北条氏の郡内への進出を認めないことであり、武蔵国司としての立場を利用して武蔵支配の強化を図る北条氏にとって、足立郡の掌握は何としても通らなければならない道でした

強引なまでの動きでしたが、裁定を下した当時の評定衆の殆んどが、北条氏或いは北条氏との関係のあるもので占められており、裁定の結果はおのずと知れたものでした

この乱以後、足立氏と足立郡の関係を示す資料が見られなくなることから、足立郡は足立氏の手から離れ、北条氏の手にわたってしまったものと思われます