2011-06-29 蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る 考古・歴史 #人類学と考古学 ◇ 蕨の歴史ー107 尊氏は文和2年(1353年)7月京都に帰りましたが、関東の情勢は依然として不安定であったため、基氏を武蔵の入間川に在陣させて新田義興らの動きをけん制させました、以来、およそ7年ほど滞在を続けたこともあって、基氏は入間川殿あるいは入間川御所と呼ばれました、その陣は入間川御陣と称され、現在の狭山市入間川にある徳林寺のあたりと云われています 延文3年(1358年)尊氏が没し、嫡子義詮が二代将軍となりましたが、関東では義興を中心とした南朝勢力の活動が再び活発化してきます、基氏は関東管領の畠山国清と謀って義興の暗殺を企て、同年10月に多摩川の矢口の渡し(東京都大田区)で不意打ちしてこれを滅ぼしました、この結果、関東における南朝勢力はほぼ平定され、基氏は翌年鎌倉に戻りました 一方、観応の擾乱のさい直義方として行動した上杉憲顕は、尊氏の怒りをかい、新田義興の挙兵にも参加して敗れ、一時越後に逃れました、その後関東管領は畠山国清が務めます、国清の妹が基氏の室となっていたことによるものでしょう、国清は延文4年10月に南朝退治のため上洛し、大いに軍功をあげました、別府幸実・高麗経澄・金子忠親らの武蔵武士もこれに従軍し、転戦して戦功をあげています