入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

学び合い 〔仲間募集〕 ℡ 048-432-1433

蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー108

しかし、国清と諸将との不和が表面化し、基氏も国清を追放せざるを得なくなりました、後任に師冬の甥師有がなったものの、基氏は憲顕(法名道昌)の復帰を求める幕府の要請を受け、憲顕は貞治2年(1363年)に鎌倉に帰り、関東管領に就任しました

一方、相模・伊豆両国の守護には、河越・高坂両氏を任命し、武蔵国は基氏自身が統轄する体制をとりました、さらに、武蔵国使節には古尾谷氏、高坂氏、岩田氏らの武蔵武士を当てました

こうして基氏政権下における武蔵武士の政治的地位は大きく上昇しました、また基氏以降関東御分国内の軍事指揮権のほか、武士や諸寺社に対して独自に所領安堵や宛行い、所領争論をめぐっての裁判権の行使をするなど公方の職権を拡大していきました

従って、憲顕復帰後の鎌倉公方は「関東公方」、その機関も「関東府」と呼ぶべきでしょう、これ以後、関東公方は基氏の子孫が世襲し、関東管領も憲顕以降は上杉氏一族に代々受け継がれていきました

貞治6年(1367年)4月、足利基氏が没し、関東公方は嫡子金王丸(こんのうまる)(氏満)が継ぎました、関東管領は引き続き上杉憲顕がつとめ、公方を補佐しました、一方京都でも、同年12月将軍義詮が亡くなり、義満が継ぎました、この幼少の義満を管領細川頼之が補佐しました、こうして京都では細川氏が、関東では上杉氏が幼主の補佐役としてその勢力を拡大し始めていきます