2011-07-01 蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る 考古・歴史 #人類学と考古学 ◇ 蕨の歴史ー109 翌応安元年(1368年)2月、武蔵国で武蔵平一揆(へいいっき)が蜂起しました、平一揆は桓武平氏秩父一族の河越・江戸・豊島・高坂氏らを中心とした族縁的な結びつきを持った武士団であり、観応の擾乱の際、新田義興や畠山国清らの追討に功績をあげ、関東府体制の基礎確立に重要な役割を担いました しかし、憲顕の関東府復帰後、関東管領となった憲顕を中心とする旧直義派勢力が政治の実権を握ったため、平一揆ら旧尊氏派においては関東府への不満が高まりました 、平一揆の乱は憲顕の復帰に伴い、上野・越後両国の守護を解任された宇都宮氏綱と呼応し、蜂起したものでした 足利義満元服の儀に参列のため上洛していた憲顕は、直ちに鎌倉に帰り幼主金王丸を奉じ、同年6月平一揆を河越の館に追い込み、9月には氏綱を宇都宮(栃木県宇都宮市)に攻めてこの乱を平定しました その結果、河越氏は壊滅的な打撃を受け、高坂氏も伊豆国守護を解職されてしまいました、一方上杉氏は、武蔵・上野・上総・伊豆各国の守護職を獲得し、関東府における地位を不動のものにするとともに、関東最大の氏族に成長していきました 乱後、憲顕の子能憲(よしのり)(山内上杉氏ーやまのうち)と甥の朝房(ともふさ)(犬懸上杉氏ーいぬかげ)の二人が関東管領に任じられ、氏満を補佐しました