2011-08-13 蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る 考古・歴史 #人類学と考古学 ◇ 蕨の歴史ー152 後北条氏と扇谷上杉氏との対立・抗争も、天文6年(1537年)7月の北条氏綱による河越城攻略によって、一応の決着を見ることとなりました、河越城には後北条氏一族の北条綱成が入り、後北条氏の勢力圏は大きく広がることとなりました 同年7月23日、氏綱・氏康父子は連署判物によって、足立郡佐々目郷を鶴岡八幡宮に安堵しています、これは、河越城攻略祈願が成就したことに対する返礼であったと思われますが、その文面に「諸願成就、皆満足せしむるのところ」とあることは、大永年間以降繰り広げられてきた上杉氏との攻防に決着をつけ、上杉氏を河越城から駆逐したことへの満足感があらわされていると云えます 北条氏綱は、天文10年に55歳で没し、嫡子氏康が家督を継ぎました、同14年、再び両上杉氏の動きが活発となります、後北条氏の進攻をくいとめ、北武蔵の勢力を確保しようとしていた上野の山内上杉憲政は、駿河の今川義元や甲斐の武田晴信に支援を依頼する一方、自身も河越城を奪回するために出陣しました 旧河越城主扇谷上杉朝定や後北条に擁立された古河公方足利晴氏も上杉勢として出陣し、さらに関東各地の武士の応援を得、大軍をもって河越城を包囲しました、しかし、河越城の北条綱成が頑強に抵抗したために、篭城は半年にも及びました