2011-07-05 蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る 考古・歴史 #人類学と考古学 ◇ 蕨の歴史ー113 禅秀も憲基も武蔵国と関係が深く、武蔵7党のうちの丹党・児玉党の武士(禅秀側)や江戸・豊島氏(憲基側)らがこの乱に加わっていました、また、武州南一揆(武蔵平一揆が再編されたもの、東京都多摩地区を拠点として武蔵南部で活動)のように、はじめ禅秀側として活動していたが、後に持氏側として活動するものもありました 禅秀の乱という危機を脱した持氏は、禅秀の与党であり、幕府から鎌倉の監視役として置かれた京都扶持衆(ふちしゅう)の常陸の佐竹一族山入与義(やまいりともよし)、小栗満重、下野の宇都宮持綱、上総の本一揆(千葉県山武郡・夷隅郡に本拠地を置く小武士らの連合組織で禅秀派)らを討伐しました これは幕府への挑戦であり、幕府との関係は悪化の一途をたどり、また山内上杉氏との対立をも深めていきました 正長元年(1428年)将軍義持が後継者を決めずに死去すると、持氏は将軍職に就くことを期待しましたが、翌永享元年に義持の弟義教が将軍職を継いだため、持氏謀反の風聞が流れ事態は緊迫しました これは関東管領上杉憲実が持氏を諌めて事なきを得ましたが、その後も持氏は永享の年号を用いなかったり、永享10年(1438年)6月、長男賢王丸の元服にあたり、将軍の諱(いみな)の一字をもらうという前例を無視し、義久と名付けるなど、幕府に公然と反抗しました