入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

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◇ 蕨の歴史ー112

満兼病没後は幸王丸が応永17年(1410年)に将軍義持の一字を拝領し持氏と名乗り、第4代関東公方に就任しました、補佐役の関東管領は上杉憲定であしたが、翌年病気を理由に退くと、上杉朝宗の子氏憲(法名禅秀)が就任しました

応永22年、禅秀家人の越幡(おばた)六郎が持氏に所領を没収されました、禅秀はこの処置を不満として関東管領職を抗議のため辞任しましたが、持氏は禅秀と対立している上杉憲定(山内)の子憲基を後任とし、禅秀勢力に圧迫を加えました

禅秀は怒って翌応永23年、持氏に不満を持つ足利満隆(持氏の叔父)や京都で将軍義持に不満を持つ義嗣(義持の弟)らを誘い、さらに一族や姻族に呼びかけて大規模な反乱を起こしました(上杉禅宗の乱)、持氏・憲基は一時鎌倉を逃れましたが、翌年1月、幕府の応援を得て鎌倉雪の下で禅秀らを敗死させました

乱の結果、禅秀が保有していた武蔵国上総国守護職山内上杉氏と宇都宮氏に、その他禅秀与党の武蔵国内の所領の多くは勲功のあった武士らに給与されました、このことは、武蔵国における山内上杉氏の優位性を決定付けるとともに、同氏と関東公方との新たな政争の原因となりました