入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー116

結城合戦後の東国においては、関東管領上杉氏が実権を掌握していきました、これに対して関東公方派は持氏の子永寿王を擁立し、関東公方の再興を図り、宝徳元年(1449年)幕府にこれを認めさせました

永寿王は鎌倉に入り名を成氏(しげうじ)と改め、公方としての活躍を始めました、関東管領には若年の上杉憲忠が就きましたが、憲忠を支えた山内上杉氏の家宰(かさい)長尾影仲、扇谷(おおぎがやつ)上杉氏の家宰太田資清(すけきよ)らの関東公方成氏派に対する反発は大きなものがありました

翌年4月、長尾・太田両氏は鎌倉にいた成氏を攻撃しようとしましたが、これを事前に察知した成氏は、鎌倉を逃れる一方幕府の軍事援助を要請し、激戦の末上杉方を鎌倉から追い出しました(江ノ島合戦)

同年10月、幕府の要請によって和睦が成立し、成氏派、上杉派の対立は表面上は収まったかにみえました、しかし、鎌倉に戻った成氏は、関東府管轄の諸国(特に上杉氏の守護国)に代初めの「徳政」を実施し、上杉勢力の削減を図ろうとしました、公方独裁政治を指向する成氏方と、幕府との協調路線をめざす関東公方上杉氏との対立は日を追って深まる一方でした