入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

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◇ 蕨の歴史ー117

享徳3年(1454年)成氏は憲忠を鎌倉西御門邸に招いて暗殺しました(享徳の乱)、山内・扇谷両上杉氏は、鎌倉を逃れ武蔵国で体制を立て直したあと、立川(東京都立川市)・府中で成氏軍と合戦に及びましたが敗れました、上杉持朝らは常陸の小栗城(茨城県真壁郡協和町)に退きましたが、ここも成氏に落とされ、さらに下野国天命(てんみょう・栃木県佐野市)に後退しました

上杉氏から連絡を受けた幕府は、成氏追討を決定、越後上杉氏や駿河の今川氏らに出陣を命じ、康正元年(1455年)6月鎌倉を攻め落とし支配下に置きました、これ以後成氏は下総の古河(茨城県古河市)を根拠地として活動しました(古河公方の成立)

成氏軍は上杉方の只木山(栃木県足利市)攻略に成功し、上杉軍は武蔵7党や武州一揆を率いて騎西(きさい)城(埼玉県加須市騎西)に逃れましたが、この騎西城も落とされました、成氏は関宿城(千葉県野田市関宿)に簗田氏、野田城茨城県五霞町)に野田氏を配置して体制を整えました

次いで翌年には下総市川城(千葉県市川市)攻略し、武蔵国東北部、下総国の西南部を勢力下に置くことに成功しました、また、同年9月武蔵の岡部原(深谷市岡部)での合戦でも成氏が勝利をおさめました、この合戦以後、成氏の家臣簗田河内守が足立郡の大半を占領したといわれ武蔵国の東部・北部地域一帯は成氏の勢力下に入りました

一方、こうした状況を打開すべく太田氏を中心とした上杉側の勢力は、岩付城(岩槻市)・河越城川越市)などの前線基地をつくって対抗したため、両勢力の抗争は泥沼化していきました