入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー118

長禄元年(1457年)7月、古河公方足利成氏と両上杉氏の抗争に悩んだ幕府は、将軍義政の弟で当時仏門にあった香厳院主(政知)を還俗させ、関東に下すこととしました、その補佐役に挙げられたのが渋川義鏡です

そのころ義鏡は右兵衛佐(うひょうえのすけ)の官途を有し、康正2年(1456年)には全国に賦課された内裏造営役の段銭負担に際し、足利一門の有勢者として他の大部分の武士が五貫文以下だったのに対し、備中国多気庄(たけのしょう)(岡山県上房郡賀陽町)などの所領から他を圧して十三貫三百十九文を負担しています

義鏡が補任されていた右兵衛佐は、曾祖父義行以来、渋川氏嫡系の殆どの者が任命されていた官途であり、また備中国の所領は、義行の備中守護在職以来のもので、それを義鏡が継承したものでしょう、従って義鏡は渋川氏嫡系の地位にあったと推考され、その立場が関東公方として下向する政知の補佐役とされた理由と思われます

義鏡の武蔵下向については、従来『鎌倉大草紙』の所説に従って「長禄元年6月23日」「公方の近親にて九州探題の家」柄であった義行が武蔵国司となり、さらに蕨に居城したとする縁由をもって史実としてきました、しかし、これについては傍証する同時代史料を欠き、かつ『鎌倉大草紙』は室町末期に成立した著者不詳の軍記物語で、史料性に問題があり、また次に述べる史実から下向の時期は誤りであると思われます