入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー135

南北朝・室町期の蕨周辺の郷として大窪郷と佐々目郷があります、大窪郷は荒川(中期入間川)流域左岸の沖積低地に拓けていた郷で、現在のさいたま市桜区大久保地区のほか白鍬、塚本に比定されます

観応元年(1350年)8月9日付の「高師直書下」によると幕府の執事であり武蔵守護を兼ねていた高師直が、配下の武蔵守護代薬師寺公義に命じ、足利氏近習の寺岡師春が所有していた大窪郷を、師直被官の安保直実に宛て行っています

この所領給与は、師直が尊氏の弟の足利直義との間で幕政の主導権をめぐって激しく対立抗争し、貞和5年(1349年)8月、師直が直義を追放した後に宛て行われたもので、直義派勢力の削減と自派勢力の拡大を企画して行われたものでしょう、しかし、師直はこの直後の10月、直義の巻き返しにより失脚し、同年2月には上杉能憲に殺害されました、このため安保直実は後盾を失い、京都から但馬へ逃れました

この後の大窪郷は、正平7年(1352年)正月に足利尊氏が、直実の兄で惣領である泰規に観応の擾乱の勲功の賞として、同郷領家職を宛て行っています、これは高師直と直義の間で始まった政争が、師直失脚後、尊氏・直義兄弟の抗争に発展し、関東においても在地武士らが両派に分かれて戦ったことによります

この時、安保泰規は尊氏軍に属して直義軍を撃破し、その功績により、泰規は直実に代わって改めて尊氏から政争中欠所地となっていた同郷領家職を与えられたのでしょう