入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

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『蕨城(館)は戸田・蕨両方にあったのではー蕨城を考える』-⑱

桃井氏は清和源氏・足利流れで、足利義兼の子足利義胤(実は義兼の次男義助の子)が、上野国群馬郡桃井郷(群馬県北群馬郡榛東村)を領して桃井氏を称したと云われます、その一門の桃井直常南北朝時代初期に足利方の武将として活躍し、若狭・伊賀守護を経て、康永3年(1344年)以降は越中守護として北陸に勢力を伸ばしました

観応の擾乱に際しては、直常と弟直信の兄弟は一貫して足利直義方として活躍し、その後貞治5年(1366年)以降、幕府に帰順し、越中守護となりました、しかし、応安元年(1368年)直常はまた幕府に叛いて北陸で幕府軍と戦い、同3年、直常の子直和は越中国斯波義将・富樫昌家らに敗れて討ち死し、翌4年直常・直信兄弟も斯波・吉見らの幕府軍と戦って敗れ、それ以後消息を絶ちました

従って、『新編武蔵風土記稿』の記述とは異なっており、その記述は信憑性を疑われ何かの意図があって、そうなったのだと思われます(その意図については、また後で考えます)、要は渋川義行が武蔵国司を命ぜられられた応安4年(1371年)には桃井氏は戦死し、消息が絶えているのです、戸田の地とは関係がないと言えるでしょう

それでは、何故に戸田の地に”ももいのやしき”の伝承があるのでしょうか、ここからは、全く自分の勝手な想像で、何の証拠もないのですが、先にも述べたように”ももいのやしき”には観応の擾乱に敗れた金子氏が占拠していたのだと思われます、弥生時代より居を構えるのに格好な処であり、規律の緩んだ足利領では難なく金子氏は居を構えることができたのでしょう

”ももいのやしき”は沢山の井戸に恵まれた”百井の屋敷”ということで桃井氏とは関係はなく、渋川氏と金子氏との妥協の産物として桃井氏の名が出てきたと思われます、金子氏の占拠に頭を痛めた渋川氏は様々な条件を付けて金子氏の占拠を当座許したのでしょう

その色々な条件の中で重要なものとして、①今後、金子氏を名乗らず桃井氏を名乗ること、②その時の金子氏の屋敷を渋川氏に明け渡し、別の処に移転することがあったのでしょう

金子氏がそのまま”ももいのやしき”に留まることは、鎌倉時代初めよりの金子氏の名望と実力を知る渋川氏としては、金子氏の周囲への影響を考えると非常に気にかかることだったのでしょう、従って2っの条件は譲れないことであったと思われます

この交渉は成立し、以後、巷間では桃井氏が”ももいのやしき”に住み、戸田と関係を持ったということが定着したのでしょう、渋川氏にとっては、一時的には足利尊氏と敵対したが足利一門であった桃井氏は既に絶えたも同様であり、それを利用することは自分の面目も立つことであり、、”百井の屋敷”の存在も好都合だったのでしょう