入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

学び合い 〔仲間募集〕 ℡ 048-432-1433

蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 蕨の歴史ー137

足立郡は北条氏以来幕府の主要な領地であり、それを引き継いだ尊氏も同様な認識をしていたようです、なかでも大窪郷は鎌倉街道の上道・中道をつなぐ羽根倉道に面し、中期入間川の渡河点(羽根倉の渡し)をがあり、水陸交通の要衝であったので足利氏にとって軍事的・経済的に重要な地とされたのでしょう、このため地頭方に岩松氏、領家方に寺岡・安保・上杉氏という足利氏の近臣を配したと思われます

大窪郷全体の規模や郷村構造は明らかにし得ませんが、岩松氏知行分の「地頭方三分一方」の状況をみると次ぎのようです

郷内には、すは(諏訪)の大明神(さいたま市下大久保の諏訪神社か)・普門寺・阿弥陀堂・長福寺があり、耕地は田が約23町歩、畠が17町歩、入間川左岸の後背地に展開する田方優先地域でした、このため排水不良による被害軽減を図る堀上田も各地にみられました、耕地は寺社に対する免田畠のほか、年貢・公事の負担を課された公田分の田畠がありました

公田分は八郎次郎名(みょう)以下六つの名と、光仙在家以下五つの在家、さらに名や在家に組みこまれていた浮免分と、現地管理者たる政所の給分、領主直営地の本御正作(ほんみしょうさく)、領主の下働き人であった定使(じょうつかい)の給分から成っていました

これらから村落農民のあり様をみると、名田畠を耕作し年貢や雑公事を負担する独立性の強い名主と、在家として把握される年貢を銭納するが雑公事負担をせず、領主への隷属性の強い在家農民、名や在家に組み込まれず浮免分・政所給分・本御正作などの耕作にあたる散田作人(さんでんさくにん)の3つの農民層を挙げることができます

このうち郷村の中核となり、やがて戦国時代の台風の目となる土豪に成長するのは名主層であって、かれらを如何に把握するのかが戦国領主の重要な課題となったのでしょう