2011-06-08 蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る 考古・歴史 #人類学と考古学 ◇ 蕨の歴史ー93 一方、京都では、後醍醐天皇が皇位につくと後宇多院政を引き継いで天皇中心の親政をしいていました、後醍醐天皇は「朕が新儀は後代の儀範」という意気込みのもとに、人材登用、物資の流通や政治機構の改革などに着手していきました しかし、後嵯峨院後の皇統の分裂と幕府の仲介による両統の迭立(後深草天皇系の持明院統と亀山天皇系の大覚寺統の天皇が交互に皇位に就く)の原則に従えば、大覚寺統の後醍醐天皇の後は、当然、持明院統の天皇でなければなりませんでした、後醍醐天皇の皇統を皇位につけるためには、実力によって幕府を倒すほかはありませんでした 後醍醐天皇の頼れる武力は得宗専制下で冷遇されている諸国の御家人や悪党らでしたが、これに応ずるものは少なくはなかったようです、倒幕計画は正中元年(1324年)と元弘元年(1331年)の二度(正中の変・元弘の変)にわたりましたが、いずれも失敗しました しかし、元弘の変では京都を脱出した後醍醐天皇が大和の笠置山に逃れ諸国に兵を募ると、楠木正成をはじめ畿内近国の武士がつぎつぎと挙兵しました、この報に接した幕府は、大仏(おさらぎ)貞直や執権赤橋守時の義弟足利高氏を大将とした大軍を派遣しました これらに従った武蔵武士には、安保道譚、河越貞重、高坂出羽権守らがいました、大軍に囲まれた後醍醐天皇は捕らえられ隠岐(島根県)に流されました、また赤坂城(大阪府南河内郡千早赤坂村)に奮戦した正成は支えきれずに火を放って逃れました