2011-06-09 蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る 考古・歴史 #人類学と考古学 ◇ 蕨の歴史ー94 その後、正成が紀伊・河内に兵を挙げると護良親王(もりよししんのう・後醍醐天皇皇子)が吉野(奈良県吉野町)で、さらには播磨で赤松円心、伊予では河野一族が蜂起しました、幕府は六波羅の軍勢を派遣すれば平定できるものと思っていましたが、正成の赤坂城・千早城におけるゲリラ戦に悩まされ続けました そうした中、後醍醐天皇が隠岐を脱出し伯耆(ほうき)の船上山から倒幕の命を発すると、形勢は一転し幕府軍から後家人の脱落が相次ぐようになりました、幕府は六波羅軍を支えるため名越高家と足利高氏を大将として再度投入しました しかし、高氏は伯耆の後醍醐天皇を攻める途中、幕府に叛旗を翻し、諸国の御家人に来援を呼びかけ六波羅を攻めました、六波羅探題の指揮下にあった在京人の多くも高氏方に寝返りました