入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

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◇ 蕨の歴史ー101

建武2年11月、後醍醐天皇は尊氏・直義兄弟の討伐を決意、二人の官位を剥奪し、新田義貞らの軍勢を派遣しました、これに対し尊氏軍は同年12月に箱根竹の下の合戦で新田軍を撃破、翌年1月上洛して一時京都を占拠しましたが、北畠顕家軍の反撃を受け九州まで敗走しました

しかし、態勢を立て直しをはかった尊氏軍は、再度京都を目指しました、そして摂津国湊川兵庫県神戸市)で楠木正成を敗死させた後、6月に光厳(こうごん)上皇を奉じて京都に入りました、さらに8月には上皇の弟豊仁(ゆたひと)親王を擁立し光明天皇としました(北朝

同年10月、比叡山に籠っていた後醍醐天皇は、尊氏と和睦しいったん京都に還幸しましたが、12月には京都を脱出して大和の吉野へ逃れ、南北朝時代が始まります

南北両勢力は各地で激戦を繰り広げましたが、延元3年(暦応元年ー1338年)に南朝北畠顕家新田義貞が相次いで討ち死にするなど、南朝側が劣勢となりました、このため後醍醐天皇は、再度北畠氏(親房・顕信)を奥羽・関東に派遣し、勢力基盤を築こうとしましたが、翌年8月、吉野で没してしまいます

この間、尊氏は建武3年11月「建武式目」17ヵ条を制定してその施政方針を打ちだし、本拠地を京都に置くことを明らかにしました、そして暦応元年8月11日、北朝から征夷大将軍に任命されました

尊氏は、東国支配の重要性を認識し、鎌倉に地方行政機関を置いて支配しました(鎌倉府ーのちの関東府)、鎌倉府の長官は、鎌倉公方(のちの関東公方)と呼ばれ、はじめ尊氏の子の義詮(よしあきら)が任命されました