入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

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◇ 蕨の歴史ー91

見つかった文書によれば、上野国渋川(群馬県渋川市)が渋川氏の苗字の地といわれていたことが裏付けられており、下野国足利庄板倉郷(栃木県足利市)を所領としていることから、渋川氏が足利氏の一族であることや、『尊卑分脈』に渋川義顕(渋川氏の祖)の注記に「板倉二郎」とあり、かなり早い時期から板倉郷とのかかわりを示唆していることも、この文書によって確認されました

また、渋川貞頼の子義季は建武2年(1335年)7月、女影原の合戦で敗れ自害しましたが、これに追随した武士に板倉七郎左衛門尉泰宣・子息弥七・舎弟七郎二郎・同又七ら父子4人、湯上彦七・同舎弟彦八、大串余二、同七郎の名が見えます、これら武士名が文書に見える渋川氏の所領名と一致しており、渋川氏が既にある程度の武士団を組織していたことがわかります

文書に記された渋川・板倉の二ヵ所は渋川氏の本領ともいえますが、これらと一緒に譲与された残りの二ヵ所も渋川氏にとって重要な所領であったようです、そのひとつに武蔵国大麻郷(熊谷市)があることは注目されます、大麻郷は、女子領として伝領されてきた地ですが、ここは渋川・足利の両地から鎌倉に向かう合流点にあたる位置にあたります

すなわち、元荒川北岸の低湿地帯で、東部には上州への入り口熊谷郷をひかえた交通上の要衝でした、しかし、前述のように内乱の過程で三郎義季は女影原の戦いで戦死したため、これらの所領は子の直頼に譲られたようです、内乱の過程で失ったものか、但馬国大田庄下保方(兵庫県出石郡但東町)は次の直頼譲状に見えなくなります