2011-06-21 蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る 考古・歴史 #人類学と考古学 ◇ 蕨の歴史ー99 後醍醐の打ち出した政策は、建武年間(1334~1338年)に入ると各地に失望や不満を招き、北条氏や遺臣らの反乱となってあらわれました、建武元年3月本間・渋谷両氏の反乱軍が鎌倉に侵入し合戦となりました、これに対しては渋川義季を大将とした鎌倉親王府軍が、その鎮圧にあたりました 建武2年7月、鎌倉幕府滅亡後信濃国に逃れていた北條高時の子時行が挙兵した「中先代の乱」の際も、関東廂番を中心とした軍勢で迎え撃ちました、しかし、武蔵国内での合戦に相次いで敗れ、女影原(日高市)の合戦では渋川義季・岩松経家らが、府中(東京都府中市)の合戦では小山秀朝がそれぞれ敗死しました 義季の自害には「宗徒(むねと)ノ侍」と「中間厩者」ら合わせて130余人が切腹し、あとを追ったといわれています、それらの武士の構成を見ると、板倉・大串・湯上(ゆのうえ)など義季の所有する所領名を苗字とした渋川氏の被官のほか、霜月騒動で滅ぼされた一族の子孫と思われる人々がいたことが判ります(薩摩氏=伊東氏、有坂氏、小笠原氏) このことは、当時すでに渋川氏がかなりの数の武士を独自に組織できる状態にあったと云え、同氏の武力編成のあり方などを考えるうえでも注目されます