入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 足立郡衙と足立氏-8

律令体制の基盤となっていた斑田収授法は、8世紀の初頭には口分田(くぶんでん)の不足からすでにうまく機能しなくなってきました、そこで、律令政府は養老六年(722年)には100万町歩の開墾計画をたてましたがうまくいかず、翌、養老七年には三世一身法天平十五年(743年)には墾田永年私財法を制定し、耕地の拡大に努めました

しかし、こうした政策は、有力な貴族や大きな寺院、或いは在地の有力豪族などによる土地の開発を促し、結果的には土地の私有化を促進することとなりました、そして、彼らには納税免除の特権が与えられていたため、耕地の拡大は、政府の収入の増加には結び付かず、国家財政はますます苦しいものとなっていきました

そこで律令政府は9世紀の初頭から、各地に皇室の私有地である「勅旨田(ちょくしでん)」を設定し、財政の確保を図ることとなりました、武蔵国でも、天長六年(829年)には290町、同7年には220町、更に承和八年(841年)には509町が勅嗣旨田となっています

しかし、こうした勅旨田の開発に狩り出されたのは斑田農民であり、また、勅旨田となった空閑地は農民の大切な生活基盤であった共同利用地でした、このため、勅旨田の設置は、農民にとっては大変迷惑なことでした

更に、このような政策を展開することによって、律令政府はその国家体制の基盤である公地公民制を自ら否定することとなったのです、そして以後、国家自体が荘園領主化していくこととなるのです