入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

学び合い 〔仲間募集〕 ℡ 048-432-1433

蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 足立郡衙と足立氏-11

律令国家体制が次第に変質していき、藤原氏を中心とする摂関政治が行われるようになると、藤原氏を除く多くの貴族は高位高官から締めだされていきました、彼らの多くは国司として地方へ下向する傾向が目立ってきます、地方に下向した貴族たちは、在地においては名門としての待遇をうけることとなります

彼らは在地の有力豪族と結び付き、自己の存在基盤を確保していきます、そして、国司としての強力な権力を利用して、私腹を肥やすことに精力を注いだのです、彼らのの中には任期が終わっても都に帰らず、赴任した土地に土着する者も現れてきます

こうした地方政治の乱れとともに、治安も悪化していきました、『日本三代実録』によれば、貞観三年(861年)には武蔵国は「凶猾(きょうかつ)党を成し群盗山に満つる」という状態となっていたと云います、そこで、同年11月、本来ならば一国に一人ずつ置かれる検非違使(けびいし)を武蔵国に限って群ごとに一人ずつ設けるという措置がとられています

この検非違使には、在地豪族が任命される例が多く、彼らは時によっては反国衙闘争のリーダーとなったため、国衙側ではこれを自己の体制内に吸収し、把握しようとしたのです、しかし、こうした政策は、半面、在地豪族の武装化国衙が承認したこととなり、地方豪族の武士化を促す要因のひとつとなったのです