入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

学び合い 〔仲間募集〕 ℡ 048-432-1433

蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 足立郡衙と足立氏-12

しかし、こうした警察権の強化にもかかわらず、治安が回復する兆候はみられませんでした、昌泰年間(898~901年)には、僦馬(しゅうば)の党と呼ばれる馬を利用した強盗の集団が、東海・東山の両道をまたにかけて暴れまわっています、昌泰二年(899年)の上野国司の上申文書によると、彼らは関東諸国の富豪の輩で、以前から馬を利用して東国の商業・交易を担っていたが、その荷物は官物を掠奪したもので、これを国司が追捕しようとしても、巧みに隣国へ逃れて取り締まることが難しいとあります

この報告を受けた政府は、相模国の足柄の坂と碓氷の坂に関所を設け、公験(くげん)-政府の発行した証明書ーを調べるよう命じています、そして、翌昌泰三年(900年)には、東海道東山道などの諸国に対して、足柄・碓氷の両関の通過には過所(かしょ)-関所の通行許可書ーの提示を必要とすることを伝えています、昌泰四年(901年)には、東国の群盗の鎮定を願って諸社に奉幣が行われています、しかし、もとよりこのようなことで効果があがるはずもなく、武蔵・上野・信濃・甲斐における群盗の被害は、甚だしいものがありました

ここで群盗とよばれているものも、先に述べた有力豪族を中心とした反国衙的集団とみることができます、そして、多くの農民を基盤とした彼らの闘争は、ついに東国全体を揺るがすようになり、やがて前後6年にわたる平将門の乱へ続いていくのです