入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

学び合い 〔仲間募集〕 ℡ 048-432-1433

蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 足立郡衙と足立氏-15

将門の仲介は功を奏し、両者の関係は一時和解へと向かいました、しかし、どうした手違いからか武芝の軍勢が経基の館を囲んだため、経基は将門と武芝・興世王らが連合して攻めたものと疑い、急いで上京し、天慶二年(939年)三月に太政官に将門と興世王が謀反を企てていると訴え出ました、これを知った将門は、武蔵・下総・上野・下野・常陸の5ヵ国の解文(げぶみー上申書)を得て自分の無実を述べ決着をみたのです

こうして、武蔵武芝と興世王源経基との対立は誣告(ぶこく)ということで落着しました、しかしその後、百済王貞連が武蔵国司として赴任すると、興世王と貞連との対立が深まり、興世王は下総にいた将門のもとに身を寄せることとなりました

武蔵国の紛争が一段落した天慶二年九月、将門は今度は常陸国の紛争に介入しました、将門は、常陸国の住人で「乱人」として同国を追われた藤原玄明(はるあき)を庇護し、その引渡しを求めてきた常陸介藤原維幾(これちか)と対立したのです、将門は兵を率いて常陸国に入り、国府を攻めて維幾を捕え、国印と国衙倉庫の鍵を奪ったのです

以後、将門は上野・下野の国府を襲撃し、武蔵・相模を含めて関東全域を制することとなったのです、この間、将門は自ら「新皇」と称し、下総国の石井に王城を構え、興世王や一族の者たちを関東諸国の国司に任命したと云われています