入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

◇ 足立郡衙と足立氏-私的考察 ⑦

地形が比較的平坦で、多くの河川が乱流していた武蔵国においては、河川やその流路周辺に河跡湖である沼・後背湿地を沢山抱えています、足立の地名も「芦立(アシダチ・葦が生い茂っていたところ)」「アダ・チ(川岸の崖の地)」「ア・ダチ(小高い所)」の転化かと考えられます

今のところ、古代武蔵がどのような人達によって開発されてきたのかを示す、確たる証拠はありません、ただ、真偽のことは別として、古い文献に見ることはできます

国造の設置を一括して示す古書に『先代旧事本紀』があります、この本には聖徳太子撰の国史に関係づけた蘇我馬子の序文が付されていますが、明らかに偽撰で平安朝に入ってから作られたものです、しかし、国造に関わる『国造本紀』の部分には『日本書紀』や『古事記』に見えない伝承をも載せており、何らかの古い資料に基づいて記述されたとみてよいようです、その中に武蔵国造の出自は出雲臣祖であると書かれています

『国造本紀』の記載によれば、武蔵国造となったエタモヒノ命はフタイノウカモロオシノカンサノ命十世の孫で、出雲臣と出自を同じくしていたとしています、この伝承は、『日本書紀』や『古事記』の所伝にもほぼ一致しており、真実に近いと見てよいでしょう、エタモヒノ命は出雲方面と深い関係を有していたようであり、出雲で育ち、のちに東国に移住したと考えることができるかも知れません