入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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◇ 足立郡衙と足立氏-17

平忠常は、上総介・武蔵押領使・下総権介を歴任し、武総の地にその権勢を誇っていました、広大な私有田を有し、その力は国司をしのぐ程の者であったと言われています、この力を背景として国衙に対して調・庸を納めず、官物を掠奪するという行為に出ていました

そして、長元元年(1028年)には安房国に侵入し、国衙を襲撃して国司源惟忠を殺害しました、これに対して、中央政府は何度か追討使を派遣しましたが、この乱を鎮定することはできませんでした、しかし、長元三年(1030年)に甲斐守源頼信(よりのぶ)と関東の国司たちに忠常追討が命じられると、頼信の追討軍が未だ出発しないうちに忠常は降伏しました、頼信は忠常の帰順を許し、これを連れて都に上ろうとしましたが、忠常は美濃国で病死しました

こうして、4年間にわたって関東を争乱に巻きこんだ平忠常の乱は終結しました、この乱の結果、関東における源氏の武名は高まり、各地の在地勢力が源氏との結び付きを深め、源氏が関東の支配を進める契機となりました、忠常の一族に対する処分もうやむやになり、その子孫は千葉常胤(つねたね)や上総介広常といった在地領主へと成長を遂げていきました

このように、律令体制の崩壊とともに、関東各地の在地豪族層が次第に武士団として成長を遂げていきました、これらの武士団の中で、関東で大きな勢力を持ってきたものに坂東八平氏と武蔵七党があります