入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

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考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より 総習[16]

このように「北武蔵と上毛野の関係を探ってみると、やはり両地区に極めて強い関係があったことが理解されます、これは律令制はもちろん、国造による国の概念、具体的には武蔵(无邪志・胸刺)・上毛野といった政治(行政)的な地域単位ではとらえられないテリトリーが存在していたことを示していると考えることができます

太田天神山古墳・鶴山古墳という太田古墳群の首長が「雄略の規制」により失脚した後、「群馬」の名の起こりとなった地域に、保渡田三古墳群と三ッ寺Ⅰ遺跡が築造されます、ここは、後に大方墳群の総社古墳群を生み、上野国府設置へとつながる上毛野にとって最も重要な地域であり、さらに東山道の要所でもありました

これに対して、弥生時代古墳時代と文化圏を共有しながら太田古墳群に代表されるような上毛野に圧倒的優位な古墳を築造されていた北武蔵の地域では、これが失脚するとまもなく、埼玉古墳群を出現させました、「雄略の規制」の下で、農業生産力を高めるための拠点として築造された三ッ寺Ⅰ遺跡とその古墳群とは異なり、埼玉古墳群の築造意義は、上毛野勢力への抑圧でしょう

上毛野の領土拡大がより肥沃な関東平野中心部へと向かっていたとするなら、その最前線である北武蔵の地、埼玉古墳群の地点はこれを阻止するのに最適な場所であったのでしょう、また、東国経営のためにも便利な位置にあったのでしょう

太田天神山古墳群を失脚させた「雄略朝」は、ここで一気に勝負に出たのでしょう、自らの側近で「杖刀人首」、つまり親衛隊長であったヲワケを遣わしたのでしょう、彼とその一族は、国家再建が成るまで「雄略の命」を守り続けたました、その結果が大形前方後円墳の並ぶ大古墳群となったと思われます

総社古墳群、そして上野国府の位置する現在の前橋市は、交通の要所でもあり、一見すると良好な占地と考えることができるかもしれなが、果たしてそうなのでしょうか、赤城山榛名山に挟まれたこの地域は、あの太田天神山古墳の首長が権勢を誇ったように恵まれた土地であるとは云えないのではないだろうか、つまり、上毛野の主流を占めることとなった首長達は、関東平野の際に追いやられる格好になったと考えられるのです