入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より

◇ 博物館講座(平成6年2月27日)から 「毛野から上毛野へ」(群馬大学教授 梅澤重昭氏)〈1〉

梅澤氏は、昭和9年〈1934年)群馬県生まれ、明治大学大学院卒業後、群馬県教育委員会、歴史博物館、埋蔵文化財調査事業団等を経て群馬大学教授を務めています

「『日本書紀』の安閑紀の記事にある『武蔵国造の乱』というテーマの特別展に合せて、やはり『日本書紀』の同じ条に毛野のこともあることからお話しすることになりました」

「毛野の形成と言いますか、毛野がどのようにして地域変貌を遂げていったのか、それに対して武蔵がどのようにかかわっていたのか、その辺を毛野側の考古資料を中心にお話して、皆さんと一緒に考えてみたいと思います」

「ところで、この毛野と言われる地域ですが、群馬県地域はかっては上野国下野国、上野は群馬県、下野というのは栃木県で、ほぼ上野一国が群馬県になっています、埼玉県・東京都・そして、神奈川県の横浜あたりは武蔵と、そういうふうに分かれていますけれども、上野国群馬県一国と理解していいわけです」

「それから、下野国もほぼ一国なのですが、古代の古墳文化のあり方などを見てみますと、下野の北のほう、いわゆる那須郡、あの地域は下野といってもちょっと違った様相があります、その端的な例は那須国造の碑というのがあるように、那須は下野としてもかなり後になって、律令体制がしっかりと整っている中で組み入れられていったと、考えていいと思います」

「上野と下野は上下ですから、かつては同じ地域だったと考えられるわけです、古い国名は『カミツケヌ』、上毛野と書きます、それと下毛野、この上毛野と下毛野に分かれたのは、『国造本紀』という平安時代に書かれている文献によれば、仁徳天皇のときに2つに分かれたという記録があります、上毛野と下毛野はある時期に2つに分かれたのは間違いない事実だろうと思いますが、分かれたのはいつの時期か、そのことが非常に問題になるわけでして、武蔵の方のいわゆる埼玉古墳群が形成されているあの時期であろうと考える中心的立場、甘粕先生はそういう考え方を強く持っているわけです」

「いずれにしても、上野、下野に、ただ単に北関東のあの地域だけの政治状況が変わっていくという形で分かれただけはなくて、分かれるにはおそらく時の大和政権の地方政権に対する圧力というものが非常に大きくかかわっていただろう、これは間違いない事実だろうと思います、そういうふうに考えていきますと、武蔵と毛野というのは非常に関係があったと言えるのですが、それではどういう地域が毛野かと言いますと、今の利根川の北の地域、そのように言っていいと思います、毛野の地域を説明するためには弥生時代の最終末期まで遡らなければならないのです」

群馬県の県南の平野部、それは高崎から前橋、伊勢崎、桐生を通って足利へ出て、佐野から栃木、小山というJR両毛線の南側で、利根川の北側にあたります、この地域は非常に広い平野地域で、北関東の主要な平野地域と言えるわけです、その北関東の平野地域は、弥生時代、特にその後期には殆んど人の住んでいなかった地域だったのです」

「最近各地でたくさん埋蔵文化財の発掘調査を行っています、ところが、依然として前橋南部とか高崎の東の方、それから太田の周辺、栃木県では足利の南部、小山の西のあたり、これらの平野地域には弥生時代後期の遺跡はほとんどないのです、ですから弥生時代の後半というのはほとんど無住の地帯であったと言っていいだろうと思います」