入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より 総習[24]

7世紀後半から8世紀初、古墳時代の終末期に当たるこの時期は、大和政権による全国統一も最終段階に入り、氏姓制度による政治機構も各地に浸透しました、聖徳太子は推古30年(622年)に亡くなっていますが、生前、太子を中心に氏姓制度でない中国の制度による国家統一が模索されていました

一方、対外的には唐などの諸外国の勢力は強まり、日本もこれに対抗できるだけの力をつけねばならない情勢にありました、そこで、遣唐使などを通じて唐の律令制度を学びました

大化元年(645年)に始まる「大化の改新」は、これまでの氏姓制度を阻止し、律令制度(国家の基本を[律]ー刑法と[令]ー行政法・司法・訴訟法・民法・商法において統治する制度)による天皇を頂点に据えた中央集約的・官僚制的な支配体制をつくり、国家統一を成し遂げようとするものでした

しかし、このような大改革が簡単にできるわけはなく、文武4年(700年)の大宝律令制定まで、かなりの時間を必要としました、この律令国家では中央も地方も行政組織が制度化され、「国・郡・郷」の行政範囲が制定され、国には「国府国衙・コクガ)」が郡には「郡家(郡衙)」が置かれ、それぞれの規模に応じた役人が任用されました

武蔵国国府は、現在の府中市の京所(きょうず)と呼ばれる大国魂神社とその東側の地域に中心があったのではないかとされています、その始まりは「八葉蓮華文軒丸瓦」の8世紀前半頃とみられ、次に「剣菱状八葉蓮華文軒丸瓦」の出土する8世紀中葉、これらから、まず古代寺院のような建築物が建立されたことが想定され、そして「郡銘瓦」「郡銘塼(せん・レンガ)」の出土する8世紀後半には、国府が存在したと考えられます

しかし、なぜ、国府武蔵国の中央部ではなく、南武蔵の地に設置されたのであろうか

すでに考えてきた古墳時代の勢力関係からわかるように、武蔵国と一括りにして考えるから疑問、問題が起こるのであって、北と南が全く別の文化圏を持つ国として考えるならば、屯倉の設置を通じて、大和政権自らの豪族、あるいは官吏を配置した南武蔵の地ほど都合よく立ち回れる場所はなかったのではないか、多摩川下流域に親大和政権派を配し、その上流の多氷(多末)屯倉の地に「武蔵国府」は置かれることとなったのであろう