2010-04-21 蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る 考古・歴史 #人類学と考古学 考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より 総習[23] これらの屯倉と共に、上毛野に設置されたとされる「緑野屯倉」があります、南武蔵の屯倉設置が6世紀中葉であり、同時期にここにも設置されたとするなら、藤岡市・七輿山古墳の存在が注目されます 飯塚卓二氏は古墳の築造企画の考察の最後で「雄略天皇の真陵とも推定される百舌鳥ニンザイ古墳の1/2の規模に造られた七輿山古墳」という指摘をしています、雄略朝は終っていても、その伝統に則した古墳を築造するところに、この古墳の被葬者の性格が秘められているように思われます つまり、古墳の被葬者こそ、緑野屯倉の経営者なのではないだろうか、ここでも大和政権の影響は強かったのではないか、甘粕氏説でいう「楔(くさび)」の意味があったと考えられるのではないか