入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

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考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より 総習[12]

一方、この時代に上毛野の保渡田三古墳に足並みを揃えるように、埼玉古墳群に大形前方後円墳の稲荷山古墳が出現しています、そして、これ以降も大形前方後円墳を主として古墳群が形成されて行きます

この埼玉古墳群は利根川を挟んで上毛野と対峙する位置にあり、地理的には、東松山市太田市もほとんど等距離といえます、従って、上毛野と北武蔵を共通する文化圏の中で理解することも可能です、このことを極端に考えると、上毛野の文化の最南端が、この「さきたま」の地であったとも考えられます、つまり、いわゆる「北武蔵」とは上毛野の一地域であったと考えることできます

保渡田三古墳が新たな土地への進出としてとらえられたように、大古墳のみられなかった埼玉の地は、上毛野にとって進出するには好都合であったとも考えられます

このような両地域を結ぶ接点として、まず、甲冑着装武人埴輪があります、稲荷山古墳には眉庇付冑をかぶった武人形埴輪の頭部が出土していますが、これに類似する全身像が高崎市八幡原町より出土しています、共に、伏鉢は取れてしまっていますが、顔の周りを囲む独特な形の眉庇、冑から錣(しころ)へと境なく続くこと、鋲留を半球状に表現すること、そして、顔の表情など共通点が多く、同一人物の作としてもおかしくない作品です

この人物形埴輪は、井出二子山古墳出土例に続き、保渡田八幡塚古墳とほぼ平行する時期と考えられ、東国でも最古例の一つでしょう