入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

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考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より 総習[11]

三ッ寺Ⅰ遺跡は律令制下の群馬郡中央に位置するが、この地は「和名抄」の記載に「群馬」と表記されるようになっても「くるま」と訓まれていたとされ、この本来地名は「車持」に由来するといわれる

「上毛野」と「車持」の関係をみると「車持公氏は、上毛野朝臣氏と同祖関係を持ち、その氏族名は雄略天皇の時に乗輿(天皇の乗物)を供進したことにより与えられた」という系譜があるという

このことから「ある首長層がヤマト王権の下で一定の職務(車持)に就き、やがてその職名が氏族名とされ、ついでその居住地は氏族名に因んだ名称で呼ばれるようになった」ことが考えられ、「この地域にあった首長層が『上毛野』の中で他に先んじてヤマト王権の機構に加わっていったことを物語っている」と思われます

そして、大和政権との「結びつきを強めた勢力が、その意図の下に交通上の要衝であり、かつ、生産基盤を確保するための便地に進出して築造した拠点」であったと考えられます

つまり、「雄略の規制」とは大和政権の地方進出を意味するものであり、各地の首長の対応に準じて、時に関係を深め、時に制圧に出るといった態度を示したと考えられます

このことは日本中に激しい政治的な嵐を呼んだと思われますが、その本来の目的は国家再編にあったのです、すでに各地で権力を増長させていた首長達を大和政権の機構の中に組込み、整備することであったのでしょう