2010-04-04 蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る 考古・歴史 #人類学と考古学 考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より 総習[10] 三ッ寺Ⅰ遺跡が単なる居館ではないことは南区画内の遺構と、それに伴う多くの滑石製摸造品・刀形木製品・獣骨・木の実・高坏を中心とする土器群の出土で理解され、「農業生産に係わる用水に対する祭祀の場の確立ということが」その重要な目的で、周辺集落の要として築造され、武器・武具が現状で見られないことから、軍事的拠点としての目的は考えにくいと云われます この築造時期については諸説ありますが、雄略朝における地域開発に伴う拠点として考えてよいでしょう まず、この地域に「井出二子山古墳に葬られた首長が進出して拠点づくりをし、それを引き継いだ八幡塚古墳に葬られた第2代首長が周辺の開発を進めるとともに、出土遺物の共通性から祭祀儀礼と政治の拠点である城館を完成させ」「それに続く第3代首長が薬師塚古墳に葬られた後に、後に継ぐべき者がこの地を離れた」と考えます これらの古墳と居館が、大和政権と密接な関係にあったことは、前方後円墳という形態を引き続き採用している点でも考えられますが、居館より出土する須恵器に大阪・陶邑窯や愛知県・猿投窯を産地とするものが見られることからも証明されるでしょう