2010-05-20 蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る 考古・歴史 #人類学と考古学 考古学で読む「日本書紀」 ”武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より ◇ 博物館講座(平成6年2月27日)から 「毛野から上毛野へ」(群馬大学教授 梅澤重昭氏)〈28〉 [質疑応答・続] 〇梅澤 「上毛野氏の始祖というのは大和政権の中枢、いわゆる崇神王朝の政権と極めて深い関係にあった、それは私の前方後円墳の企画論で言えば、前方後円墳の前方部の台形、いわゆる4つの隅が前方部円の円周に内接する点できめられた古墳をつくった人たちは、我が先祖は嵩神朝だという意識をもった人たちだったと思うのです」 「ところが、太田天神山古墳の代になるとちょっと意味合いが違ってきて、いわゆる河内政権ですね、応神、仁徳朝というものと、古墳のタイプで言うと非常に近くなってくると言えるかと思います、さらに、保渡田古墳群の時代になると、さっき言ったようないわゆる渡来系の色彩が強くなるのです」 「『新撰姓氏録』という平安時代に書かれた本がありますが、それを見ますと、上毛野氏というのは極めて渡来系の人たちが多いのです、律令機構のなかで地位を得て上毛野氏を名乗った人たちなのです、貴族化した渡来系氏族が系統の由来を求めて豊城入彦命を始祖とする名族の上毛野氏を名乗っているのです」 「例えば、かぐや姫の伝説に出てくる車持君という氏族がいますが、あれも上毛野氏なのです、上毛野氏の系統を見ると、商人の秤をこしらえたとか、商才にたけたとか、土木技術にたけたとか、テクノクラートと言いますか、そういう系統の氏族が多く、そしてそれは渡来系の人たちなのです」 「そうしますと、上毛野氏というのは、場合によると5世紀の末から6世紀の初め、渡来系の氏族が、嵩神朝からの極めて家柄を誇った人たちとうまく合体した形で新しい勢力を築くという、いわゆる『新撰姓氏録』に出てくる渡来系の上毛野氏という性格もあるのではないだろうかと考えます」