入倉伸夫のシニアライフ-蕨市塚越-

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蕨、戸田、川口、鳩ヶ谷の古を探る

考古学で読む「日本書紀

武蔵国造の乱”(大田区立郷土博物館編)より

◇ 博物館講座(平成6年2月27日)から 「毛野から上毛野へ」(群馬大学教授 梅澤重昭氏)〈27〉

[質疑応答]

〇質問

「古代史の中に近江の毛野というのが出てきますが、それとこの東国の毛野との関係というものをお聞きしたいのですが」

〇梅澤

「大変難しい、江戸時代の国学者等の研究もあるのですが、毛野という言葉の意味は植物が繁る、そういう状況をあらわしているという説があるのです、そのようなことから見ますと、未開の沃野を毛野と、あの土地で言っていたのではなくて、関西の大和の地域で、東の方に極めて未開だけれども、肥沃な広い土地がある、それを毛野という、そういうふうに言っていたのではないかと思うのです」

「『常陸風土記』の中に、常陸の国の真壁郡という毛野寄りの地域は毛野川に境するとあります、毛野川というのは鬼怒川ですが、鬼怒川から西は毛野の土地だというふうに言っているのです、その土地は茫漠とした広い肥沃な土地だけれども、人の住まない土地と、そういう意味合いがあったのだろうと思うのです」

「毛野と古代氏族の関係は『日本書紀』にちゃんと出てきます、崇神天皇の長子に豊城入彦という人がいますが、この人には後の垂仁天皇、活目入彦という弟がいるのです、崇神天皇は2人の子供を呼んで跡取りを決めるわけです」

「そのときに兄の方は、武勇にすぐれているから、まだ従わない東国を治めなさいということで、東国の始祖になったというのです、ところが、活目命、弟は政治的な力があるということなのでしょうね、だから皇位を継ぎなさいということなのです、『日本書紀』をみますと、非常に名文でそのくだりが書いてあります」